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1999年7月31日
「純血」の実態

7月27日の朝日新聞夕刊5面に出ていた記事である。
純血は英語でthoroughbredサラブレッドといい、雑種はhybridハイブリッドという。

ところがぎっちょんちょん、競争馬のサラブレッドは、もともとはイギリス産の牝馬とアラビア産の牡馬をかけ合わせた交配種だというのである。

論を書いた森本豊富・早稲田大学教授はこの事実を評して、
「純血」を標ぼうするところにはある種の意図が働いていることがわかる、としている。もっとも「ある種の意図」がどんなものかは、具体的には書いていないのだが。

純血といえば、ドイツ・ナチス時代のゲルマン人神話を思い出す。
この考えと裏表をなす法律が制定され、実行された。
精神病者、肉体的不具者、アル中患者、遺伝病患者などを排除する法律を定め、殺したり、断種したわけである。

人種ではジプシー、ユダヤ人などが強制移動を強いられた。ユダヤ人強制移動の場合は、ナチスがシオニスト(シオニストとは、ユダヤの独立国家を望む一部のユダヤ人)と協定を結んだ。そして、ユダヤ人全般に弾圧と強制移動を仕かけ、のちにイスラエルとなる地域への移動をうながした。

この一種の優生思想は、アメリカで鉄道王ハリマンの未亡人がコールド・スプリング・ハーバー優生学(*1)研究所に土地と資金を与え、ダベンポートらが研究したものである。ドイツの優生思想はコールド・スプリング・ハーバー優生学研究所の研究成果の影響を受けている。

優生思想は人間でも貴族だけがすべての価値を独占できる、というような偏頗な考えが基本にあるとしか思えない。

代表的な優生思想の持ち主は、ヨーロッパ王族・貴族階級であり、アメリカの特権階級を自認している一部の人々である。

(*1)ゆうせいがく【優生学】

人類の遺伝的素質を向上または減退させる社会的要因を研究して,悪性の遺伝的素質を淘汰し改善をはかることを目的とした応用遺伝学の一分野。1883 年イギリスの遺伝学者 F=ゴールトンが提唱。ユージェニックス。

【引用】
・三省堂 『ハイブリッド新辞林』





1999年5月25日
「難民」の由来

毎週日曜日午前10時半からNHKで放送される「週刊こどもニュース」を楽しみにしている。
内外のニュースをわかりやすく説明してくれるので評判だ。

この前は、「難民」について取り上げていた。
戦争、災害などで被害を受け(受難)、生活に困り(困難)、安全な地域に逃げる(避難)人々を指している。受難、困難、避難から「難民」と名づけられたという。

冗談のような説明だが、ネイミングというのはそんなものかもしれない。






1999年5月16日
宮崎勤事件―「魔が居るわ」と書かれたハガキ

私が「M(宮崎勤)君裁判を考える会」に属していることから、宮崎勤事件、いわゆる「連続幼女誘拐殺害事件」について何か報告してくれないかという注文がEメールで届くことがある。
そこで、少しずつ宮崎勤事件のことを書いていきたいと思う。

被害者とされる幼女が4人いるが、そのうち真理ちゃん事件の経緯をまず確認したい。

1988年8月、埼玉県入間市に住む真理ちゃん(4歳)が行方不明となった。その年の12月真理ちゃんの母親あてに「魔が居るわ」と記されたハガキが郵送されてきた。さらに翌年2月真理ちゃん宅前に段ボール箱(真理ちゃんのものとされる骨と写真とメモが入っていた)が置いてあり、つづけて犯行声明文が郵送された。同じく3月には告白文が郵送されてきた。今でもマスコミで話題となる「差出人名・今田勇子」の「犯行声明文」「告白文」である。

今回書きたいのは、「魔が居るわ」と書かれたハガキのことで、全文を紹介すると、
「魔が居るわ 香樓塘安觀」
となっている。

この全文が一般に公開されたのは、宮崎勤事件第一審判決文(1997年4月14日判決。判例時報 No.1609 1997年10月1日号掲載/控訴審はまだ始まっていない)である。
関係文書にはけっこう目を通していたつもりだが、「魔が居るわ 香樓塘安觀」にはそのときまでお目にかからなかった。特に問題は「香樓塘安觀」の部分で、判決文で公開されるまで一切ふせられていた。

さて、「香樓塘安觀」の言葉の存在を知ったところで、意味自体よくわからない。
「M君裁判を考える会」でも「香樓塘安觀」のことは話題になったが、どうにも見当がつかず、皆困ってしまった。
香はいい匂い、樓は二階建て以上の建物・遊女屋、塘は川・池の土手、安はやすらか、觀は城門のやぐら・道教のてら、と見当はつけても全体の意味はわからない。
「魔が居るわ」がアナグラム(言葉を綴(つづ)りかえて,元とは別の意味にすること。また,その遊び。【三省堂 『ハイブリッド新辞林』】)だとすると、こういう例が考えられる。

「魔が居るわ」→「まがいるわ」→「いるまがわ」→「入間川」

これは、事件について取り上げた雑誌や新聞記事によく出てくる、有名な見解だ。

「香樓塘安觀」もアナグラムという可能性が高くなるが、まったくややこしい。

警察が「香樓塘安觀」の部分をふせて「魔が居るわ」の部分だけマスコミに流したのも不可解だ。

このように、「魔が居るわ 香樓塘安觀」と書かれたハガキ一枚をとってもいまだ不可解な点が多いのが宮崎勤事件の実状なのである。






1999年3月28日
少年A取り調べの警察官・検察官に対し、弁護士ら11人が自白強要の告発

まず、事情をよく知らない人のために神戸事件の冤罪説について触れておきたい。神戸事件は少年Aが犯行を行ったとして一般的には認知されている。しかし、あれは冤罪ではないか、当時の様々な状況からも少年Aが犯行を行ったとはとても思えない、との声が意外に強いのである。その視点から今回の話を読んでいただくとわかりやすい。

神戸事件に関連して、警察・検察の不正の告発を支援する会の「講演の集い」が3月22日に開かれた。

昨年10月9日、後藤昌次郎弁護士ら11人は、A少年に偽計を用いて「自白」を強要した兵庫県警警察官と共犯の検察官を「特別公務員職権濫用罪」で大阪高等検察庁に告発した。このことを受けての集会である。

折しも、発売されたばかりの週刊文春1999年3月25日号に、少年Aの母親の手記が掲載されており、問題提起を行った後藤昌次郎弁護士は、主に母親の手記を題材に喋ってくれた。

週刊文春に従って、少年Aと両親の面会の経過を見てみる。

週刊文春1999年3月25日号による、少年Aと両親の面会の経緯

少年Aは1997年6月28日の逮捕以降、両親と会うことを一貫して拒否してきた。3ヶ月たった9月末に、両親は連絡なしに息子が送致されている神戸少年鑑別所を訪れた。ところが、少年Aが両親に浴びせたことばは、
「帰れ、ブタ野郎」だった。

2日後、鑑別所の管理官から電話があり、少年Aが母親に会ってもいいというので、母親は今度は一人で、神戸少年鑑別所に行った。

次に両親が少年Aと顔を合わせたのが、1997年10月9日第3回審判、17日の第5回審判の時だった。 少年Aは、第5回審判の3日後に東京府中の関東医療少年院に移送された。年末、両親は府中の面会室で少年Aに面会した。

両親は、面会に何度も訪れたが、府中では2回しか会えていないという。


少年Aの両親は現在どこに住んでいるのか不明だが、文芸春秋社はなぜか行方を知っていて、両親に接触し、手記を書かせることになる。
両親の判断材料は、少年Aとの面会、弁護士の接見メモ、精神鑑定書だけだった。
こうして、そもそものこの手記の眼目である、

週刊文春1999年3月25日号32頁の3段目

その時、フッと直感めいた考えが頭をよぎりました。 <ああ、やはりウチの息子があの事件の犯人やったんや。Aがやってしまったんだな> 私はようやく実感として、辛い現実を受け入れられるようになりました。


が書かれることになったのである。つまり、親ですら自らの息子である「少年Aの犯行である」と、肯定している状態なのだ。

集会を主催する冤罪説の人々が、「少年Aの親ですら息子の犯行であると肯定する状態」をどういう理屈で乗り越えるのかな、と私個人としては楽しみにしていた。その期待通り、後藤昌次郎弁護士はすごかった。見事に解説してくれた。 聞いたことはすぐ忘れるたちなので心許無いが、とりあえず思い出した部分だけ紹介することにしたい。

後藤昌次郎弁護士の説明要約

両親が少年Aを犯人だと思ったのは、あくまでも直感であり、これこれの証拠がありますからと見せられて判断したわけではない。

判断材料となった精神鑑定書は、有罪を前提としてまとめられたものなので、これを事実であると評価するのは間違っている。

審判のとき、家族についてどう思いますか、との質問に少年Aは、「自分を守る石垣のような存在です」とだけ淡々と語った。両親も「そう、私たちがこれからも石垣になって守ってやらないと」と考えている。でも守ってやることはできなかった。
守れなかったのは、一番両親の助けが必要だった6月28日から9月末までの間、警察が両親と少年を会わせなかった、からである。


このへんのいきさつは、28頁5段目に触れられている。

週刊文春1999年3月25日号28頁5段目

「会いたい」と警察に何度かお願いしていたのですが、最初の頃は、留置されている須磨署が報道陣だらけでとても無理だ、と断られました。その後も弁護士さんを通して面会をお願いしたのですが、Aから拒否されていました。


9月末の最初の面会のときのやりとりが、27頁一番下の段から28頁3段目にかけて記載されている。

週刊文春1999年3月25日号28頁3段目

両親が言葉をかけた途端、
「帰れ、ブタ野郎」
「帰れ−」「会わない、と言ったのに何で来やがったんや」と怒鳴り出し、これまで一度も見せたことのない、すごい形相で両親を睨みつけた。
涙を一杯に溜め、グ−ッと上目使いで本当に心底から私たちを憎んでいるという目。少年は睨みつけながらも涙をボロボロこぼして泣いていた。


後藤弁護士は、この涙に注目して、
「この涙は、少年の無念の涙」
と解説してみせてくれた。

一番助けてほしい時に面会に来てくれなかった両親に対して、今になってという気持ちは強かっただろう。少年はまさか警察が妨害していたとは露とも思わなかったに違いない。

集会からの帰り道、一緒に行った友人の88才になる上野さん(三鷹事件で獄中死した竹内さんを支援したことがある)は、
「面会に来ないのは、両親がお前を見捨てたからだ、と警察は言った(可能性が高い)、というのを後藤弁護士は忘れている」
と評した。
「警察は言った」
というのは、過去の冤罪事件を支援した上野さんの、経験からくる推論である。

私は、
「警察がそういう発言をした可能性はある」
と答えただけだったが、確かに、少年と両親を離反させるために、何らかの言葉を警察が弄したのは間違いないところだろう。






1999年2月11日
決めつけてしまわずに落ち着いて推移を見守る必要性

朝日新聞1999年2月8日朝刊4面「ミニ時評」に、珍しく狭山事件のことが載っていた。

「狭山事件」のことを簡単に紹介しよう。

1963年5月に埼玉県狭山市で、高校一年生の女子生徒が誘拐され殺された事件があった。犯人と疑いをかけられた石川一雄さんは取り調べ段階と一審公判では犯行を認め、1964年一審では死刑の判決を受けた。

しかし石川さんは1964年の控訴審になると「女子生徒を殺していない」と訴えるようになり、多くの文化人や部落解放同盟も問題として取り上げるようになり運動が盛り上がった。社会問題とまでなり、長く続いた控訴審は1974年一審判決を破棄し、無期懲役の判決とした。

その後、1977年に最高裁は控訴審判決を支持、無期懲役の判決が一応確定したが、石川さんは粘り強く再審を請求し、1994年12月から仮出獄中である。

これがいわゆる「狭山事件」のおおざっぱなあらましである。

自ら冤罪を訴えながら仮出獄が認められるということは珍しい。

さて、新聞記事は次のように伝えている。

朝日新聞1999年2月8日朝刊4面「ミニ時評」

「なぜ、嘘の自白をしてしまったのか、いずれお答えしたい」。四年前の仮出獄直後、そう答えていた石川さんはその日、一気に話した。「取調官からアニキが犯人だと信じ込まされた。認めなければアニキを逮捕すると言われ、一家を支えていた働き手の兄の逮捕だけは、どうしても避けなければ……」


引用の「その日」というのは、紙面の報告者・社会部の本田雅和記者と石川さん(もう60歳になるのだという)が久しぶりに会ったときのことである。

それにしても、真実を言うのに、驚くほど大変な時間がかかるものである。獄外にいる者の理解を遙かに超える長い時間だ。

石川さんの場合は、仮出獄した時も言う機会はあったと思うのだが、四年たってようやく言えたわけである。

真実のことが言えない、そのことこそが、警察・検察の取調べが人に与える影響の大きさ(長い間に渡って与える影響)を示しているというべきであろうか。

「犯人」自身が自白していても、「本当の真実」を話しているのかどうか決めつけてしまわず、落ち着いて推移を見守る重要性を語りかけているように思われる。





1999年1月12日
「ロシアに物がある」真実の状況がねじ曲げられ、「ロシアに物がない」という報道となって誤って伝えられている

朝日新聞1月10日5面「声」欄に載った記事。
サンクトペテルブルク市に留学している22歳の大学生・岡田勇気さんの投書があり、
「物あるロシア 私の実感です」
の見出し。

岡田さんは複数の日本の友人、知人から同じ内容の手紙をもらった。

手紙には皆
「テレビニュースや新聞では、ロシアの店には何も物がなかったり、行列ができたりしていると報道されているが、大丈夫なのか?」
と書かれている。

ところが岡田さんの実感では、
「物もスーパーやキオスク、市場に所狭しと並んでいるし、行列はよほど安い店か両替所にしかできません」
という。

つづけて、岡田さんは
「ロシアに物があるというニュースは、ニュースとして価値がないからなのでしょうか?理由は分かりませんが、ぜひとも真実を報道していただきたいと思います」。

確かにテレビや新聞では、ロシアの厳しい状況ばかりが報道されている。実はこれにはわけがある。

ソ連崩壊後、ロシアにはロシア民族主義運動である「パーミャチ」が勃興してきた。民族主義というのは、ひもつきである場合がかなり多いといわれている。日本では右翼の児玉誉士夫が、米CIAのエージェントだった例がある。

筆者が「パーミャチ」のことを知ったジョン・コールマン『ロシアの「記憶」−勃興する民族主義運動』(歴史情報研究所歴史双書)でも、コールマンは「パーミャチ」がひもつきである可能性を種々検討している。結局1991年までの段階で「パーミャチ」はひもつきではないと結論づけている。現在は不明だが、そのままの評価だと推定される。

しかし「パーミャチ」への反発も多い。その代表がエリツィン大統領やガイダル・移行期経済研究所長、ロシア共産党、それにつながるIMFや国際投機筋たちである。

国際投機筋(実行役はジョージ・ソロスたち)が、ここ数年来一連のロシア危機を仕かけ、ベレゾフスキーら新興産業家を育て、さらにロシアから資金をまきあげてきた。8月になってルーブル引下げを演出し、ロシアのきびしい状況をマスコミに流すようになった。

ここには「パーミャチ」への攻撃が隠されていると思われる。

ガイダルは元ソ連共産党メンバーであり、ロシア共和国政府議長代理、クラブ『相互活動』委員会議長をつとめたれっきとしたフリーメーソンである。

つまるところ、このガイダルたちの力により「ロシアに物がある」真実の状況がねじ曲げられ、「ロシアに物がない」という報道となって誤って伝えられている可能性があるのだ。






1998年12月30日 
湾岸戦争多国籍軍の毒ガス被害は自作自演か?

朝日新聞1998年12月29日朝刊7面
見出しが
「湾岸戦争時の多国籍軍 警告無視し毒ガス被害? イラク軍が弾頭破壊 チェコ元司令官暴露」
の記事は重要である。以下、引用。 

チェコ主要紙「ムラダー・フロンタ・ドネス」によると、対化学兵器部隊の大隊長だったヤン・バロ氏が当時の部下や同紙記者と共著で近く出版するノンフィクションの「砂漠の熱病」の中で、化学弾頭の破壊によるとみられる有害物質の探知と、それに基づいた情報の取り扱いについて記している。
チェコスロバキア部隊が九一年一月、サウジアラビア北東部で、神経ガスのサリンとイペリット(マスタードガス)を少量検出していたという記録は「湾岸戦争症候群」についての調査が米国で進められていた中、すでに公にされている。バロ氏は今回初めて、その経緯について証言。「イラク軍は、弾頭を破壊して生じた毒ガスが風に乗って国境を越えサウジに届くことをねらっていた」との分析を明らかにした。
同書はまた、チェコ軍の探知結果がシュワルツコフ将軍の日報に中にも記されており、同将軍らが警告を受けていたにもかかわらず、「誤った探知結果だ」とみて無視した、と結論づけている。バロ氏は「私は何度も警告を出したが、関係書類を三回にわたり紛失された」と述べ、妨害を受けたと主張している。
本の共著者で「ムラダー・フロンタ・ドネス」紙のペテル・ゼリンスキー記者によると、今回のでもチエコ当局からの圧力があり、出版社変更を余儀なくされた、という。
湾岸戦争で、当時のチェコスロバキアから派遣された対化学兵器部の元隊員は約二百人いるが、ゼリンスキー記者は「うち約三十人が、『湾岸戦争症候群』を訴えている。

引用終わり

要点は第一に、イラク軍は、化学弾頭を破壊して生じた毒ガスが風に乗り、国境を越えてサウジアラビアに届くよう狙っていた。
第二にシュワルツコフ将軍は、チェコ軍の毒ガス探知の情報を無視して、兵士が毒ガスを浴びるままに放置した。

こういう情報を読むと、マッカルバニー・インテリジェンス・アドバイザー誌1996年8月特集号「湾岸戦争症候群(GWI)とその隠蔽」の真実性がより増してくる。






1998年12月25日
野坂昭如の知事にまつわるお笑い発言

毎朝、1時間から2時間くらい少し早歩きで散歩している。
このあいだの日曜日のこと、永六輔の声が聞こえてきた。同じように散歩している人のラジオからである。
野坂昭如らと「青島都知事を大阪府知事にする会」を作っていると言う。青島都知事は評判が悪く、東京都知事をやめてほしいから大阪府知事へ追いやれ、という意味からユーモアを交えてそんな会を作っているわけである。

それなら現在の大阪府知事はどうするのかという話になって、野坂が、
「大阪府知事はロシアの大統領にすればよい」
とのたまわった。
それを聞いた周りは、大笑いしていたが、散歩中の私も笑ってしまった。






1998年12月22日
毒入りカレー事件の弁護人が語るエピソード

14日人権と報道・連絡会の例会が行われ、和歌山カレー毒物混入事件の報道に関して、林健治被告の弁護人・木村哲也弁護士が講演した。
12月2日和歌山地裁で開かれた林健治被告への勾留理由開示裁判での木村弁護人の意見要旨に重要なことが述べられているので、紹介したい。  

林健治被疑者がなぜ黙秘しているかについて、
「取調のなかの雑談の際、捜査官がなにかにつけ、妻である眞須美容疑者が諸々の犯行を行ったというふうにしか話をもっていかず、何を話しても謙虚に聴いてもらえないのではないかという思いがあるから」であり、
さらに身上書について、
「被疑者が話してもいない身上に関する調書の下書きができあがっており、読み聞かされもしたという」
被疑者が黙秘していることは報道され公知の事実になっているが、
「このように話してもいない内容が文書として作られている」
しかも
「内容も間違いが含まれている」
という。
被疑者がまったく供述していないのにかかわらず、
「『私は・・・』というふうに始まる内容の文書が、まさに被疑者の署名と押印さえあれば調書になるというところまでできあがっている」
という。 
弁護人はさらにつづけて、
「身上調書だけに限らず、その他の被疑者の供述のストーリーが取調官の頭のなかにすでにインプットされている、否、ワープロでアウトプットまでされて存在する可能性がある」
と指摘している。

実際にこんなことがあるのだなと思うと、やはり暗然たる気持ちになってしまう。





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