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Z 松本サリン事件

第1 事実経過
 1 背景事情
 (1)村井秀夫の人物像について
 村井秀夫が独自に目指した「科学と信仰世界との融合」、村井の中でのハルマゲドンの捉え方、村井がハルマゲドンという言葉を持ち出して、教団の救済計画を切羽詰った雰囲気に持ち込んだこと、その前後の村井のCSIでの行動経過から認められる村井の人物像、村井の被告人からの乖離、村井の独断専行、村井に対する幹部や信徒活動を担当する部署からの反発、被告人の村井に対する叱責等の経過は、すでに、総論において述べたとおりである。
 また、教団のサマナさらには幹部にあっても、上祐らをグルと仰ぐなど被告人以外の自分より宗教的により高い「ステージ」にある者の言動を、被告人の指示と同一視して無分別に追従するという姿勢があったこと、特に村井については、CSIの部下の中には、心底村井に心酔していた渡部など、村井の指示であればためらうことなく従ってきた人物が存在していたこと、また、1993年(平成5年)ごろには、被告人は、例えばエウアンゲリオン・テス・バシレイアスの放送など以外は現場に姿を現わすことがなくなっており、現場のワークを指揮する者は正大師である村井または正悟師とよばれる幹部達であって、現場のサマナにとってはその言葉は被告人の言葉と同一視するしかなくなっていたこと、このような状況を良しとして、被告人の知らないところで、村井が無断で濫費を行なっていたこと、なども併せて指摘したとおりである。
 (2) 本件に至るまでのサリンの生成と使用状況このような状況の中で、1993年(平成5年)3月以降、1年後にハルマゲドンが起こり、日本が戦争に巻き込まれるという事態を信じていた村井が、「あと1年しかない。」と土谷に対して述べ、この頃から多数のプロジェクトを試み、その全てが失敗に終わったこと、その一連の流れの中で、同年4月頃からは、村井が土谷に働きかけ、防毒のための化学兵器の研究として、土谷をサリン等の研究に誘導した経緯も総論及びサリンプラント事件ですでに述べたとおりである。
 (3) 土谷によるサリン生成状況
 その後、サリンが生成された経緯、教団で造られたサリンが、池田事件、滝本サリン事件で使用された経緯は、すでに滝本サリン事件で述べたとおりである。
 (4) 本件事件で使用されたサリンの生成について本件事件で使用されたサリンは、1994年(平成6年)1月から生成が開始され、同年2月中旬か下旬頃に完成した。
 このサリン生成の最終工程で、生成作業に従事していた中川及び滝澤がイソプロピルアルコールを過剰に加えてしまったため、副生成物であるメチルホスホン酸ジイソプロピルが多量にでき、毒性が弱まったこと、しかも、イソプロピルアルコールの下でも分解が進み、全てのサリンが分解されていた可能性もある(Y、第1,1、(6)及び後記第2,3、(2)、エ)。
2 本件事件前の教団生成のサリンの殺傷力の認識
 (1) 教団幹部の認識
 サリンプラント事件で述べたとおり、村井はこの頃までに自ら発案した全てのプロジェクトに失敗し、教団で生成したサリンについても、これを知る全ての者の間で、その殺傷力に大きな疑問があることは共通認識となっていた。そして、サリンプラントのワークを担当していた中川、滝澤らは、到底完成が見込めないと考えており、それは、新實においても一致した認識となっていた。
 また、サリンプラントのために莫大な教団資産と多数の人員を費やしたことから、他の幹部やワークに従事する者からの村井に対する不満が押さえがたいものとなっていた。
 (2) 被告人の認識
 また、滝本サリン事件で述べたとおり(Y、第1,2)、サリンを使用した一連の経過から、結局、遠藤、新實、中川らは、教団で生成したサリンの殺傷力のみならず、教団で生成した物質がサリンであるかどうかさえ疑問に思うようになっていた。
 また、池田事件の後に中川が行なった富士川河川敷での実験結果の報告を受けていた被告人も、中川らと同じ認識を持ったのは当然のことであった。サリンができているかどうかに大きな疑問が発生し、中川も、被告人も「できていない。」という認識であった。
 1994年(平成6年)4月の段階で、このように、池田事件に関与した幹部ら、噴霧実験を行なった中川から事後的に報告を聞いた被告人は、できたと言われている「サリン」なる物質が、文献に言うサリンであるか、文献にある効果を有するものかどうかについて、全く信用していなかった。
 (3) 村井の認識
 また、1994年(平成6年)4月頃、土谷は、クシティガルバ棟付近で、村井から、「ブルーサリンは化学兵器として評価できるか。」と聞かれた。土谷は、「ブルーサリンは不純物のほうが豊富なので、化学兵器として使えるような代物ではない。」と回答した。村井は「わかった。」と言って、そのまま立ち去った。
 池田事件に使用した不純物のないサリンでさえ、噴霧された側には何らの効果も出ていなかった。ましてや、不純物を多量に含むブルーサリンがサリンの効果を持つかどうかについて、村井も疑問を持たざるを得なかったのである。
 しかし、村井はなおもあきらめず、噴霧方法を工夫しようとし、1994年(平成6年)4月の富士川河川敷の失敗の後、同年6月初め頃、クシティガルバ棟に加湿機を持ちこみ噴霧実験を試みるなどしていた。
  【土谷尋問速記録(第241回13丁、14〜16丁)、中川尋問速記録(第182回18丁〉】

3 本件事件に至る経緯
 (1) 被告人と村井の乖離
 総論で述べたとおり、被告人は、村井が、教団とサマナを守りたいという一念から多くのプロジェクトを計画し、全く成功しないことについて、村井自身に対する修行の一環としてこれを止めることはしなかつた。
 しかし、1993年(平成5年)初頭以降の村井の言動は、周囲のサマナ、とりわけ信徒活動によるお布施を集めるサマナたちから強い反発が生じたため、被告人は、1993年(平成5年)、公開の場で村井を、これ以上の濫費をしないようにと叱責した。これはとりもなおさず、教団の資産を濫費することはやめるようにと、村井に命ずるものであつた。
 その時期は、村井が、清流精舎にオカムラ鉄工から多数の機械を搬入し、さらに多くの原材料を目途もなく買いこみ始めた頃、すなわち村井が70トンのサリンの生成を土谷に話した1993年(平成5年)4月以降のことである。
 村井は、多額の金員を白分の判断で動かすことができる立場を利用して、被告人に無断で、プラントや武器製造と関連して、多額の無駄な機械、材料等を購入していた。被告人は、村井のこのような濫費をやめさせようとしたのである。  被告人は目が見えないため、誰かの報告がなければ、清流精舎などの野ざらしの機械の現状を知ることができなかったが、被告人は、このことをようやく知った後、村井の「貧り」であるとして、そのような行動をやめさせようと公然と村井を叱責した。被告人が、あえて他の者達の面前で、公然と村井を叱責したのは、これらの出費が自身の意思に反するものであることを明確にし、村井にこれ以上の出費をさせないように制止する意図から出たものであった。
 ここにおいて、村井と被告人との乖離が発生していたことは明らかであった。
 しかも重要なのは、それが1993年(平成5年)であったことである。1993年(平成5年)4月、村井は、ジェット戦闘機を作るとの計画の元に、ロシアで数十万ドルという巨額のソフトを購入しながらまったく活用しないなどの、でたらめな出費を繰り返していた(土谷尋問速記録第235回)。
 他方でその頃被告人は、材井の浪費を叱責しやめさせようとしていたのであることから明らかなとおり、これらの計画は村井の独断によるものであったことは明らかである。
  【佐野尋問速記録(第241回36丁〜)】
 (2) 村井の反発
 しかし、村井は、なおも被告人の指示に従おうとしなかった。
 村井は、宗教的指導者としてはともかく、こと科学的な知識について、自分の想像したものを客観的に実現することについては、被告人にも挑みかかるような姿勢を示していたように、強い自負を持っていた(土谷尋問速記録第235回17丁〜)。  他方で、村井にとって、出家前の社会で果たせなかった自身のさまざまな発案や考えを具体化するためにいくらでも費用を費やし、いくらでも人を使えるという教団内での自己の地位は、快感でさえあった(佐野尋問速記録241回31丁〜38丁)。  しかし、村井のこのような行動を目の見えない被告人に告げるものはなかった。村井の活動拠点であるCSIや清流精舎には、被告人が設置を命じていたコーザルラインと呼ばれていた投書箱も設置されることはなく、被告人には村井の独断専行を把握する術がなかった(土谷尋問速記録第241回28丁〜31丁)。
 (3) 村井の実験の継続
 サリンプラント事件で述べたとおり、村井は、1993年(平成5年)8月頃から1994年(平成6年)初めにかけて、土谷を言葉巧みに化学兵器の研究と生成に誘導し、その結果、サリンと考えられるものを完成させた。
 これは村井にとって、初めてといっていい「成功」であった。これを受けて、1994年(平成6年)以降、村井は、被告人からの叱責の後も、サリンプラントの実現にますますのめりこみ、また、ジェット戦闘機、武器弾薬の製造、といった計画も含め、多くの人員と金員を投入した。
 しかし、滝本サリン事件で述べたとおり、1994年(平成6年)5月に実行されたとされる滝本サリン事件の頃までには、池田事件、中川らによる噴霧実験等の結果から、サリンとされるものが全く効果のないものであるとの認識は、被告人や幹部たちの間では共通のものとなっていた。
 他方、被告人からみれば、村井の修行という面から見ても、その「貪り」は、座視することのできないところに来ていた。
 しかし、村井は、教団で生成したサリンの効果を試す実験が相次いで失敗し、サリンプラント建設も行き詰まっていたのに対し、上記のとおり、1994年(平成6年)6月初め頃も、サリンの噴霧方法の検討を続けていた。
 村井は、滝本サリン事件の後、加熱式の噴霧車の製造に取り掛かっていたが、同年6月終わり頃、新しい噴霧方法を実験したいと考えた。村井の意図は、新たに考案した噴霧機の性能を試してみたいという科学者としての個人的な動機が中心であった。

4 6月20日頃の「共謀」について
 このような経緯のもとで、1994年(平成6年)6月20日頃、村井が、被告人、新實、中川、遠藤らの集まった席で、「車で、サリンを撒く。噴霧車は私が作る。」と、噴霧実験をしたい、という趣旨の提案をした。
 しかし、池田事件を経験している中川、新實から次々と疑問が提示され、結局、何をするのか、実行するか否かについては、何ら決定されることなく、終了した。 検察官は、被告人が「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンを撤いて、サリンが実際に効くかどうかやってみろ。」と命じたとするが、後述するとおり、このような事実はない。
 ところが、新しい噴霧方法を実験してみたいと考え続けていた村井は、その後、独断で、サリンを撒布する計画を進めた。

5 村井の準備行為から出発まで
 (1) 大石寺への下見
 検察官が「共謀」があったとする6月20日から4〜5日が経過した6月24日か25日頃、遠藤と中川は、静岡県富士宮にある日蓮正宗の大石寺(住所:静岡県富士宮市上条2057)に、村井の指示で、サリン撒布の下見が行なわれていた。
 その際には、遠藤が富士市でレンタカーを借り、中川を伴って、大石寺まで行った。遠藤によれば、サリンを撒く対象についての下見ということではあったが、中川が、「なぜ大石寺にサリンを撒くのか。」について尋ねたところ、遠藤は「分からない。」と述べた。
 この事実から明らかなとおり、6月24日または25日になっても、どこにサリンを撒くかは決まっていなかった。6月24日の段階ですら、松本市内に撒くのか大石寺に撒くのかという点についても、村井自身、未定の状態であった。後述するとおり、検察官の描く本件事件の動機に重大な疑問を投げかけるものである。
  【滝澤尋問速記録(第182回)、中川尋問速記録(第103回、第184回1丁〜、33丁〜)】
 (2) 新實及び端本の下見
 他方、6月25日頃、新實及び端本が、村井の指示で、長野地裁松本支部の下見を行なった。  同日、昼近く、端本と新實は、近くのセブンイレブンで待ち合わせた。端本は、新實から「松本に行く。(高遠でなく)下の道を通ってくれ。」とのみ言われ、端本が車を運転して同行した。車に乗るや否や、新實は寝入り、その後2時間ほども眠っていたため、端本と新實は全く会話をすることもなく、新實が道順を指示することもなかった。
 新實は、その後途中の公衆電話ボックスで、教団松本支部らしきところに電語をかけ、南松本駅で、地図を受け取った。端本は、このとき初めて新實から、「裁判所にサリンを撒く。」と言われたが、新實の口調は全く重大なことを告げるような様子ではなく、軽く明るい感じであった。
 端本は、1993年(平成5年)9月からロシアに行っていたが、1994年(平成6年)3月にロシアから帰国後、教団に撒かれているのはサリンだという話が頻繁になされていた状況があり、他方で誰も入院したという話はなかったため、サリンという物質は有毒ではあるが鼻水が出る程度のものであると認識していた。そのため、このとき重大なことを言われたとの認識はなかった。
 端本は、自分が何のために運転をさせられたのかさえ理解できず、単に松本へのドライブに行って帰ってきた、という感じだけが残ったほどであった。
  【端本尋問速記録(第98回48丁〜、53丁〜、60丁〜)、中川尋問速記録(第186回27丁)】
 (3) 遠藤及び中川の下見
 その後、6月26日午後、村井の指示で遠藤及び中川が、松本市の警察署の下見をした。
 松本市の下見に際して、中川は、遠藤の指示で同行したものの、何のために自分が下見に行かねばならないのか、遠藤からも説明はなく、全く理解できなかった。
 また、下見といっても、警察署や裁判所は見たものの、周囲をぐるっと車で回った程度に過ぎず、松本城を見ながら遠藤が「これは国宝だ。」などの会話がなされるなど、中川にとっては、「時間をつぶす」というような感覚でしかなかった。

 その後、遠藤が松本ナンバーのレンタカーを借りているが、これは遠藤名義で借りており、遠藤も自身が後に犯人として捜査の対象となるのではないかというような警戒感は全く持っていなかった。
  【中川尋問速記録186回29〜32丁】
 (4) 中川に対する村井の準備行為の指示
 ア 6月20日の「謀議」の後数日間、中川には全く何の連絡もなかつた。
 中川は、6月24日頃、急邊、村井から、防毒マスクの製作を命ぜられたが、このときまで中川は、村井が噴霧機の実験を提案したことさえ半ば忘れていたほどであった(中川尋問速記録第184回(2)42丁〜45丁)。
 イ 6月26日夜、中川は、松本の下見から帰った後、クシティガルバ棟でサリンを噴霧車に詰めるよう、村井から指示された。
 その際村井から「できたら教えてくれ。」と言われたが、「いつまでに」という期限の指示もなされなかった。
 ウ 6月26日夜から東京で行なわれた省庁制の発足式の段階でも、また、6月27日の明け方の段階でも、村井は、中川に対し「噴霧車はまだできていない。」と話していた。
 このため、中川は、26日の段階でサリンを詰めろと指示をしておきながら、噴霧車がまだできていないという村井の指示に混乱した。
 エ このように、村井の中川に対する指示は矛盾していたばかりか、いつ実行するのか等の計画性も全く認められない、全く場当たり的なものに終始していた。
 いつ出発できるのか、6月27日に実行できるのかは、6月27日の段階でも不確定であった。
 オ サリンを詰める際の中川の様子について
 中川は、サリンを噴霧車に詰める作業をしたが、その作業は天井が低いため困難であり、大変な苦労をした。しかし中川は、エアラインマスクはつけていたものの、それ以外の防毒の方法などは講じていないし、全ての作業を一人でおこなった。注入作業が終わったのは、6月27日の、午後1時を過ぎていた。
 なお、この作業はクシティガルバ棟で行なわれたとされているが、クシティガルバ棟の入り口の大きさからすれば、果たして中に噴霧車を入れることが可能かどうか、疑問がある。
  【中川尋問速記録(第179回29丁、33丁、第186回5丁、12丁〜13丁、19丁〜20丁、28丁、46丁〜64丁)】
(5) 中村、富田、端本の参加
 ア 実行行為に参加する人員は、村井、遠藤、新實、中川のほか、端本悟、中村昇、富田隆がこれに加わることになった。後の3人は、村井が、新實を通じて指示した。
 イ なお、滝本サリン事件で述べたとおり、遠藤、新實、中川は、池田事件あるいは滝本サリン事件に関与し、また噴霧実験の結果も承知しており、さらに村井の行なってきた数々のプランの失敗に鑑み、教団で生成したサリンを撒いたとしても、何らの効果も出ないものと考えていた。
 ウ また、端本、中村、富田は、サリンを使用したそれまでの事件については関与しておらず、後述するとおり、サリンの一般的な効果についても知らなかった。
(6) 省庁制の発足式
 ア 1994年(平成6年)6月26日、東京の「うまかろうやすかろう亭」で、省庁制の発足式が行なわれた。それは翌27日未明まで続いていた。それがこの日に行なわれることは、法皇内庁において、したがって被告人の承認の下に、26日に決定されたことであった。
 他方、村井は、6月26日朝、中川に対し、「明日実行する。」と突然告げたため、中川は大変慌てて、マスクの準備等をしなければならなかった。
 村井は「明日実行する。」と告げたが、発足式の最中の6月27日未明、中川が村井に「まだ準備できていない。」と耳打ちすると、村井は中川に対し「私もまだだ。」と答えた。また、発足式の最中、中川と被告人との間では、松本にサリンを撒くということについては、何らのやり取りもなされなかった。これは、6月27日に松本サリン事件が実行されることなど、被告人が全く知るところではなかったことの証左である。
  【中川尋問速記録(第186回39丁、42丁)】
 イ 発足式からは、土谷、滝澤、中川、佐々木は、4人で帰った。帰るきっかけは、土谷が滝澤に「そろそろ帰りたいですね。」という話をしているのを傍らで聞いた中川が「じゃあ帰ろうか」と言いだし、4人で、上九一色村に帰還することとなったものであった。遠藤も、土谷が帰るというのを聞いて「じゃあ僕も帰ろうかな」と言って別の車で帰った。村井も、中川とほぼ同じ頃に帰った。空はすでに明るくなりかけていた。
 ウ その帰りに中川の乗った車が故障しサービスエリアで迎えを待つこととなった。そのとき、土谷は中川から「今日置き場所を聞くかもしれないから、実験棟にいてくれ。」と言われた。土谷が上九一色村に着いたのは、6月27日午前中であった。
 エ このように、実行された当日の午前中、実行行為に参加した者達さえも、それぞれ気ままな行動に終始していた。
  【土谷尋問速記録(第241回34〜41丁)、中川尋問速記録(第186回8丁、39丁、41丁、42丁)】

6 出発から松本市内への到着まで
 (1) 実行不可能な時刻の出発
 1994年(平成6年)6月27日、村井らは松本市に向かって出発した。村井は、寝坊して遅れた様子で、午後3時半頃、クシティガルバ棟へやってきた。新實、中村、端本、富田は連れ立ってやってきたが、遠藤、村井はばらばらにやってきた。そのあと30分ほどして出発した。出発した時刻は、午後4時頃であり、そもそも出発の時点ですでに、松本の裁判所にサリンを撒き裁判を妨害するなどという目的は、実行不可能な時間であった。
  【中川尋問速記録(第186回68〜70丁)】
 (2) 実行犯らの様子
 出発の際、中村らに対しては、毒物を撒くというような話は全くなかった。出発するときすでに午後4時を回っていたので、「裁判の邪魔をする」と新實から聞かされていた中村は、新實に「今から行っても間に合わないんじゃないか。意味がないんじゃないか。」と言うと、新實は「とにかく行くだけ行ってみる。」と述べた。
 他方・村井は、時間のことは全く意に介する様子もなく、上九一色村を出発した。しかし村井は、焦っている様子もなく、また、車中では、「裁判所を狙うという目的からすると、そもそも出発時間からして無理じゃないか。」というような話も全く出なかった。もし裁判妨害の目的であったとすれば、村井や新實は、そもそもできるはずもない計面のために出発し、他のメンバーはできないことを知りつつ村井に従って上九一色村を出発したということになる。
  【中村尋問速記録(第240回44丁〜56丁、62丁〜63丁)、中川尋問速記録(第186回71丁〜73丁)】
 (3) 移動中の車中での状況
 このような状況であるから、車中では冗談が出るほどで、メンバーの間には全く緊張感はなかった。
  【中川尋問速記録(第186回71丁〜73丁)】。
 ワゴン車には、中川、新實、遠藤、中村、富田ら5人が乗っていた。運転していた富田は、端本の運転する噴霧車の後について走っていた。車中で、中川が、富田、中村に対し、目の前が暗くなったり、息が苦しくなったら教えてくれ、と述べた。しかし、「非常に危険なガス、吸ったら死ぬ。」などの発言はしていない。
 途中で、諏訪市内の雑貨店付近で、一度停車した。その際、中川は、臭化ピリドスチグミン30ミリグラムの錠剤を、サリン中毒になったときの治療を容易にする目的で、配布した。誰がどれだけ飲んだかは、明らかでない。
  【中川尋問速記録(第186回71〜73丁)】
 (4) ドライブイン「八望」における状況
途中、ドライブインの「八望」で、停車した。新實と村井は、ドライブインの駐車場で話し合い、新實の示唆により、裁判官宿舎に目標を変更することにした。
 すでに真っ暗となっており、車の中にいた中川からは、ドライブインからもれてくる光がなければ新實と村井であるということも分からないような辺りの暗さであった。
 新實から、地図を示された村井は、地図を見るために、八望のドライブインの駐車場で唯一の灯りである公衆電話ボックスの方に行き、その灯りで、場所を確認した。
 後述するとおり、目標の変更につき村井が被告人の了解を得たとの事実はない。
  【中川尋間速記録(第187回51Tl〜)】
 (5) マスクの組立作業
 その後、松本市内のコンビニエンスストア(アップルランド)の駐車場で停車し、ナンバープレートの偽装工作を行ない、また、中川は、防毒マスクの組み立てを行なった。
 なお、これは、取り立ててマスクをチェックしたというわけではなく、使用するための組立てを行ったものに過ぎない。

  【中川尋間遠記録(第187回61〜64丁)】
7 実行行為の状況
 (1) 噴霧を行なった駐車場に到着したのは、6月27日午後9時か10時頃であった(中川尋問速記録第179回46丁)。
 (2) 村井は、犯行現場で、自ら噴霧車のコンテナの噴出口を開け、その後、自ら噴霧車のサリンを噴霧する装置を操作した。噴霧車の周りには白い煙が立ちこめ、最後は、噴霧車が見えづらくなるほど、真っ白に立ち込めた。
 (3) 噴霧を開始した時刻は、午後10時40分頃で、噴霧は15分程度で終わった。
 ところが、噴霧が終わるまでの間、村井は、防毒マスクをかぶらず、手で口を押さえながら操作を行なった。村井がマスクを着けたのは、現場から離脱するために端本が運転を開始したときからであった。
 サリンの噴霧が終わり車を動かした際、端本には、助手席にある方のサイドミラーにドライアイスの煙のような白い霧状のものが見えていた。
  【端本尋問速記録第102回71丁〜】
 (4) 途中、富田のマスクに空気が来なくなり、富田が中川に告げたが、中川が対応しなかったため、富田は立腹し、2回目は強い口調で中川に抗議した。しかし、死の恐怖でパニックになったわけではなく、中川の度重なる不手際に対する立腹によるものだった。
  【中村尋問速記録(第240回76丁〜77丁)】

8 実行行為後の状況
 (1) 村井ら実行犯は、本件噴霧現場でサリンを噴霧したが、同人らは、噴霧中も噴霧後の帰途の車中においても、多数の死傷者が生じることは全く予期しておらず、緊張感を欠き、運転手以外のほぼ全員が眠り込んでいたほどであった。
 (2) 端本の運転する車が上九一色村に着いたのは、6月28日未明であつた。
 その2〜3日後、教団の作ったワープロで打ち出したような壁新聞が、第6サティアン2階に張り出された。端本は、人が死んだことを知り愕然とした。また、その後会った富田も、泣き崩れるような様子で、「人が死んだぞ。」とひどく動揺していた。
  【端本尋問速記録(第102回90丁〜、106丁〜)】

第2 争点
 1 裁判妨害の動機
 (1) 松本支部の裁判について
 検察官は、教団松本支部の開設に伴う民事紛争があり、これが、教団が松本サリン事件を起こしたきっかけのひとつであるかのように主張する(論告114丁)。
 しかし、松本支部に係属していた訴訟は、以下のとおりそのような動機にはなり得ないものであった。
 そもそも裁判妨害の目的については、当時、教団側で民事訴訟を担当していた元弁護士の青山吉伸証人が、民事訴訟記録に基づいて詳細な証言をしており、それによれば、訴訟の対象は売買部分と賃貸借部分があったが、「訴訟の結論」は「勝つだろうという認識だった」(青山尋間速記録第91回14丁)、賃貸借部分については、「実質的な争点とは考えておりませんでしたし、勝つつもりもないし、勝っても意味のない部分でした」、「もう建物ができ上がっているような状況ではですね、あとから賃借部分を貸してあげるよと言われても意味がないわけです。ですから、賃貸借部分について報告する可能性というのは、ちょっと、薄い」というものであり(同30丁〜31丁)、この証言は、民事訴訟記録を踏まえた具体的な証言であって、十分信用できるものである。
 この点につき、検察官の冒頭陳述は、被告人は青山から「賃貸借部分について仮処分同様敗訴の可能性が高い旨の説明を受け」、「近く行なわれる本訴判決でも教団の主張を排斥するおそれが強い松本支部を選定し、同支部を目標にサリン噴霧を」行なったというものであるが、青山証人は、この検察官の冒頭陳述につき、「私には理解できません。」(同31丁)、「賃貸部分について」「全く念頭になかった」と明確に証言しているのであって(同32丁)、松本の裁判所の裁判を妨害する目的などあり得ないことは明らかである。
 このように、裁判所松本支部では、教団と、教団の進出に反対する住民との間で、訴訟が係属していたのは確かであるが、被告人は、青山から、売買契約に関連した訴訟の結論については勝つだろうという認識を伝えられており(青山尋問速記録第91回14丁)、また、賃貸借部分の帰趨については、もう建物ができ上がっているような状況ではあとから賃借部分を借りても意味がないため、勝っても意味のない部分であった。これは、賃貸借部分について教団が行なっていた賃料の供託が中止されたことからも、明らかである。よって、賃貸借部分については青山も報告しなかったのである(同30丁〜31丁)。  よって、被告人が青山から「賃貸借部分について仮処分同様敗訴の可能性が高い旨の説明を受け」、「近く行なわれる本訴判決でも教団の主張を排斥するおそれが強い松本支部を選定し、同支部を目標にサリン噴霧を行なう」などの動機は、成立し得ないものであった(同31丁〜32丁)。
(2) 中川らの認識
 また、幹部であり、本件の実行犯の一人である中川さえも、松本で裁判をやっているということは知っていたものの、一教団が原告か被告かさえはっきしていなかったし、その裁判が1994年(平成6年)の時点で未だに係属しているとは全く知らなかった。
 さらに富田は、地元の人と多少トラブルがあったということは知っていたが、何が原因でトラブルになったか、どんな反対運動があったかは、知らなかった。このような富田の認識は、教団信者の中ではよく知っているという部類であり、信者の多く及び幹部さえも、松本での裁判の帰趨に全く関心を持っていなかったのである。
  【中川尋問速記録(第179回8丁、第189回1丁〜5丁)】
(3) 青山検面調書の信用性
 この点につき検察官は、青山検面調書(D甲672,1丁〜4丁)を引用する。
 ア しかし、そもそも同調書には、いくつもの客観的な事実に反する部分があり、基本的に信用性に疑問がある。
 まず、「その脇に」支部道場もあわせて建設する目的とする部分(1丁裏)は、第90回公判遠記録添付の建築確認申請書の添付図面(別紙3の3)を見ると明らかなように、申請建物の「脇に」支部道場の建築計画はそもそも予定されていないのであって、明らかに事実に反する供述内容である。青山自身が自らこのような供述を行なうはずもないのであるから、この部分は民事の事件記録を検討していない検察官が思い込みで誘導したとしか考えられない。
 また、同調書上では「その直後に尊師に賃貸借は負けたが売買部分は勝ったことを報告している」となっているが(4丁)、第一次仮処分での争点は賃貸借契約の有効性のみであり(青山尋問速記録第90回22丁)、第一次仮処分後に売買部分は勝ったことを報告するはずはない。
 イ これに対し、青山の当法廷での証言によれば、1992年(平成4年)1月17日に出た第一次仮処分に対して同月23日、異議の申立て及び即時抗告をしたが、裁判の理由も承服できるので、その結果が覆る可能性が大きいとは思っていないと青山自身が判断していた(同30丁〜31丁)。その保全異議、即時抗告の結果が変わり得るかどうかについての間い合わせの記憶はないが、期待できないということは被告人に言っている可能性があること(同33丁表)、その異議審、即時抗告審の判断が出ない同年2月12日には、売買部分のみに規模を縮小した計画変更後の支部道場の建設の建築確認申請をしていたこと(同31丁)、そのような縮小した範囲内での建築という決定ができるのは被告人であること(同33丁)、賃貸借の継続を求めて賃料の供託を行なっていないこと(第91回10丁〜12丁)、訴訟が提起されても仮処分どおりになるだろうという認識を青山は持っていたこと(同14丁裏)、弁論終緒段階で仮処分どおりだという青山の認識は変わっていないこと(同28丁裏)、との事実が明らかになっており、これは客観的な証拠に符合する。したがって、青山の当法廷における証言は、検面調書と比べてより信用性が高い。
 このような状況を踏まえ、青山は、被告人が賃貸借部分は意識していないと証言しているのである。そしてその理由については、「(賃貸借部分は)勝つ勝たないじゃなくて、完全に諦めていたと言いますか、勝とうと思っていないわけです」(青山尋問速記録第82回12丁〜13丁)とか、「(賃貸借部分は)もう既に、とっくにその問題は終わっていまして、売買部分に限って新たな建物をもう建てているわけですから」(同)「(賃貸借部分は)実質的な争点ではなかったと言うことです」(同13丁裏)と証言している。そうしてみると、上記のとおり、本件裁判について、教団側がわざわざ裁判官を狙ってサリンを噴霧し、裁判を妨害するという行為を行なうべき理由は何ら存在しないことになる。
(4) 松本支部道場での説法
 検察官は、被告人が、松本支部道場での説法において、裁判官ら教団に敵対しているとみなしたものに対しては将来危害が加えられることを予言する内容の説法を行なったと主張する(論告114丁)。
 ア しかし、検察官が引用する説法(弁8号証のビデオテープ)は、その内容を検討すると、検察官が主張するような内容のものではない。
 まず、検察官が自ら引用しているように、被告人は、「大変ありがたいことであり…解脱に至るためのプロセスである…修行者の目から見ると大変ありがたい」と述べているのである。また、説法を行なっている被告人の口調、表情をみても、興奮することもなく、激することもないのであり、検察官が主張するような内容を説法しているようには受け取ることができない。また、この説法が載せられた「仏典研究」(青山尋問速記録第91回、添付の別紙5)をみれば明らかなように、この部分は、「第1話オウム真理教の役割」という中の、「解脱・悟りに至るために不可欠な外的圧力」としてまとめられており、「仏典研究」を編集した教団関係者からも、そのようなものとして理解されていることが明らかである。
 イ さらに検察官は、その後に続く「もし逆にその圧力を加えている者から見た場合、どのような現象になるのかを考えると、私は恐怖のために身のすくむ思いである。」と述べる部分のみを捉えて「将来おそるべき危害が加えられることを予言した」ものであるとする。しかし、同じく「仏典研究」を見れば明らかなように、この部分が記載されている「確実に予言は成就する」という表題の部分を見ると、検察官の指摘する記載はあるものの、それに続く記述は、「神々の怒りが増すであろうこと、その結果宗教間の争いが増すであろうということ、大津波で多くの人が死んだこと、オウム真理教の世界向けの放送が多くの人に聞かれていること」、が記載されているに過ぎない。
 このように、検察官の指摘する上記部分の前後を曲解することなく素直に読めば、「地裁松本支部の裁判官及び反対住民らに対する強い反感を明らかにし、裁判官ら教団に敵対しているとみなしたものに対しては将来恐るべき危害が加えられることを予言した」と理解することは到底不可能であり、検察官自身の牽強付会な解釈に過ぎないことが明らかである。
2 被告人の共謀の有無(論告115丁(イ))
 (1) 「オウム国家建設の野望」について
 ア 論告の陵味さ
 検察官は、本件事件を実行した時、被告人がサリン70トンを用いるなどして国家権力を打倒しオウム国家を建設する野望を抱いていたとし、サリン噴霧用のヘリコプターの入手に成功し、かつ、サリンプラントによるサリンの大量生産開始を目前に控えていたとする。
 しかし、そもそも検察官のこの一連の主張は、全く具体性がない。
 (ア) まず、サリン70トンを、1台のヘリコプターで撒布するということが仮に実行できたとして(それ自体全く現実性がない)、それによってどうして「国家権力を打倒する」ことができるというのであろうか。
 また、被告人がそうして建設しようとしていた「オウム国家」というのは一体どのようなものであったというのであろうか。その具体的な内容は、全く立証されていない。
 (イ) また、検察官は、あたかも「省庁制」が、擬似国家であったかのように指摘するが、総論で述べたとおり、省庁制は、1994年(平成6年)頃、被告人が著しく体調を崩し、教団内の現場をコントロールすることが困難となったことから、石川らの発案で、既成の組織を省庁に分け、各責任者を決めて「大臣」等と称したに過ぎない。
 省庁制が取り入れられた理由はそのようなものであり、また、何ら国家組織の実態を有したものではない。
 (ウ) 新實証言の信用性
 なお、検察官は、新實尋問速記録第210回86丁以下を摘示しているが、それは、新實が、松本サリン事件を称して、武装革命の一環である、と証言する部分を引用しているものと思われる。
 a しかし、この部分の新實の証言内容は全く信用性がないと言わなければならない。
まず、新實自身も認めているように、被告人が「武装革命」という言葉を口にするのを新實は一度も聞いていない。しかし、新實は、被告人の言葉である「ヴァジラヤーナの実践」がそれであるとし、それは「世俗的な観点からしたら、武力を使って現在ある政権をひっくり返そうとしているわけですから、武装革命という意味になると考えたから、私や井上君は使っているんだと思います。」と証言する(新實尋問速記録第201回38丁〜)。
 ところが、新實が言う「私や井上君が使っている」というのは、当時そのような意味で使っていたというのでもなく、井上が法廷での証言でそのように使っているというのであり、それを知って自分も「武装革命」という言葉を使っているというのである(同35丁、第210回87丁、90丁)。
 これはまさに「後知恵」である。そのような批判を意識して、新實は否定するが、新實の当時の認識または体験に根ざした証言ではないことは明らかである。
 b それのみならず、弁護人が、「被告人の説法(1994年(平成6年)3月11日仙台)では、国家に対する対決の姿勢を示さなければ、私と私の弟子たちは滅んでしまうと言いつつ、そのための実践としては聖・武・科をあげている。その内容は積極的に攻撃しようという意味ではない、聖慈愛よりも、聖哀れみが必要であると説法しており、飽くまでも受身で耐え忍ぶ、という姿勢ではないのか。」と質問されると、否定することができなかった(新實尋問速記録第201回4丁〜5丁、38〜40丁)。
 そして、要するに新實がこのように証言するに至ったのは、井上の法廷証言を聞いたことと、1990年(平成2年)3月24日の富士山総本部道場での説法を、「ヴァジラヤーナの教学教本」で(尋問の文脈からすれぱ、「逮捕後に」)読んだ新實が、井上の証言に触発されて、自らの解釈でそのように理解して証言したに過ぎない(新實尋問速記録第210回90丁)。
 c このように、「教団が、国家権力を打倒してオウム国家を建設する野望を抱いていた」との検察官の論告は、検察自らは何ら積極的な立証を行なわず、他方で、このような唯一のかつ極めて脆弱な証拠に依拠するものに過ぎず、到底認められるべきものではない。
イ サリンプラントとの関連性についての疑問
 次に検察官は、サリンプラントによるサリンの大量生産開始を目前に控えていたとする(論告115丁(イ)a)。
 (ア) 完成の目途のなかったサリンプラント
 しかし、すでにサリンプラント事件で述べたとおり、本件事件の頃は、サリンプラントは全くの目途が立っていなかったのであり、大量生産開始を「目前に控えていた」と認めるに足りる証拠はない。
 かえって、謀議があったとされる1994年(平成6年)6月当時、サリンプラントの稼動の見込みがあるかどうか、大量のサリンを作れるのかどうか、について、可能であると考えていた者はいなかったことが証拠上明らかである。中川証言によれぱ、次のとおりであった(中川尋問速記録第184回8丁〜11丁)。
 すなわち、滝澤は「製法自体がだめだ。プラントに向いた方法じゃない。」と考えており、1993年(平成5年)年末の時点で、「年内に作れと言われてもできるわけがない。誰も話を聞いてくれない。」と頭を抱える、悲惨な状態であった。しかし、村井自身も、プラントの製造は全て滝澤に押し付けており、村井自身も、いつ投げ出そうか、というような雰囲気を漂わせていた。また、新實は、松本サリン事件の後ではあるが、サリンプラントはいつまでたってもできない、との意見を述べていた。結局、被告人はもとより、「謀議」に参加したとされている幹部の中で、サリンプラントの完成、サリンの大量生成が可能である、と考えていた人物はいなかった。
 したがって、そもそも新實の述べる松本サリン事件の目的なるものは、新實自身を含め、謀議の場面にいた幹部の誰一人(おそらく内心は村井さえも)信じていなかったのである。
 また、上記のとおり(第1,3、(1))、被告人は、サリンプラントを含む村井の濫費を中止するように命じていたものである。
 (イ) 中川検面調書の信用性
 検察官は、上記の点に関連して、中川検面調書(D甲804,6丁〜7丁)を証拠として摘示しているが、これは、松本でサリンを撒く目的に関連して、「サリンを使って試してみるという目的が最初にあり、その後、松本の裁判所もしくは裁判官を狙うという話が出てきたものと思う。」「この当時村井さんは、第7サティアンのサリン生成プラントがすぐにでも稼動を始めて大量のサリンが生成できるようになると言っていたので、尊師もこの村井さんの言葉を信じていたのだと思う。」との部分を引用したものと思われる。
 しかしながら、この部分の供述は信用できない。中川は、当法廷において、「このようなことは必ずしも供述していない」とし、概要次のとおり証言した。
 「サリンプラントについては、稼動の見込みがないのに薬品ばかり買ってどうするんだろうと思っていた。稼動の見込みがない理由は、たくさんあるが、ひとつは、製法自体がプラントに向いた製法でないこと。実験室でできたからといって、大きなプラントでできるとは全然いえない。ボツリヌス菌培養の際にいきなり大きなプラントを作ってそれで失敗するのを見てますからよく分かってる。もうひとつは、いつ投げ出そうかという村井の態度である。科学技術省の中であまり地位の高くない滝澤にずっと押し付けていること、一番印象的なのは、松本サリン事件後私を稼動の責任者にしたことである。自分はプラントの関係で全然意見をいう立場ではなかった。平成6年の中国旅行の頃で作業は全然すすんでいなかったから、僕は絶対できませんと村井にいった。松本サリン事件の後、村井自身もできる見込みが極めて薄いと分かっていたと思う。そこで、運営に全然関係していない私に運営の責任者をやれといい、与えられたメンバーは全然サイエンスの知識のない人がほとんどで、しかも自治省の関係者で、科学技術省は手を引くといい始めた。平成6年8月頃のことである。」と(中川尋問速記録第184回(2)7丁〜20丁)。
 さらに中川は、この点を次のように詳しく証言している。「松本サリン事件後の1994年(平成6年)8月初め頃、村井は、中川に、サリンプラントの運営の責任者を、『あんたやれ。』と、中川に命じた。その後中川に与えられたメンバーは、科学の知識が全くない者ばかりで、かつ、自治省の関係者がほとんどであった。また、村井白身も『科学技術省も手を引く。』と言い出した。さらに、同年10月には、中川も、サリンプラントには関与しなくなった(中川尋問速記録184回19丁〜)。  検面調書にあるような「サリンが大量にできるようになったときに備えて」という状況は、個々の事実をつぶさにみていくと全く存在していないのである。
 さらに、D甲804,7丁には、「この時期に松本サリン事件を実行すれば警察が動き出して第7サティアンで生成したサリン70トンを撒布するという計画がつぶれる可能性が非常に高いことはだれでも分かることであり私は尊師が何を考えていたかよく分かりません」との供述があることからも、松本でサリンを撒くことと、大量のサリンを生成するという計画とが「誰が見ても矛盾する」ということを、検察官自身も認めざるを得なかったことが如実に現れている。
 (ウ) 新實検面調書の信用性
 a また、検察官は、上記の点に関連して、新實検面調書(D甲807の2丁〜4丁、同809の8丁)を、証拠として摘示する。
 D甲807の2丁〜4丁は、松本サリン事件の動機について、一つは、松本支部の裁判官を殺害し、裁判を妨害せんとしたこと、もう一つは、新たな噴霧装置の実験であり、大量殺害の実践に役立つかどうかであり、最終的には70トン近いサリンを製造し、大型ヘリコプターを使って都内に大量のサリンを撒いて首都を壊滅させるという考えを持っていた、との供述部分を引用しているものと思われる。
 b しかし、この供述部分は、信用性がない。
 確かに、村井が計画していた「武装化計画」は余りにも荒唐無稽なものであり、松本サリン事件にしても、真実目的が何であったのかは疑問が多く、その意味では新實の公判廷証言も全面的には信用できないものではあるが、新實の捜査段階の供述に比べて、無差別大量殺りく及び裁判妨害の目的を否定する証言は、次のとおり、十分信用できるものである。  c そもそも裁判妨害の目的については、すでに述べたとおり、青山証人の証言するところにより、被告人は、訴訟の結論は一部については勝つだろうという報告を受けており、残りの部分はすでに建物ができ上がっているので勝敗は意味がないものとなっていたことが明らかである。
 したがって、新實が、「民事訴訟の提起や、裁判所の審理の進め方はオウムヘの迫害である」と理解するはずがないし、ましてや「その事件を担当している裁判官をサリンを噴霧して殺害し、裁判を妨害しようと考え」るはずもないのである。

 現に新實自身、当法廷で、弁護人より、「民事訴訟の提起や裁判所の審理の進め方は、オウムヘの迫害であると理解していたという記載部分があるが、このような理解はあったのか。」と質問されたのに対し、「なぜサリンを使わなければいけないのかというと、そこのところで私の中の理解ができないので、自分を納得させてかつ相手も納得させてということで、もう迫害しかないということで、私もそういうことで承諾したということでしょうね。…客観的事実からすると迫害とも思えないんだけれど、だったらなぜサリンを撒くのかというのがわからなかったので・・。全ては結果だと思いますね。結果としてサリンを撒いて亡くなった方も出られて、そういったことからしてそうじゃないかと。」と証言しているのである(新實尋問速記録第210回98丁〜99丁)。
 d また、新實は、公判廷おいて、サリンを撒く目的について、「裁判のじゃまをするためだと思います。」と一旦は証言しているものの(新實尋問速記録第198回4丁〜)、それではなぜ邪魔をする必要があるかについては、「なぜかは分かりません。」(同8丁)と証言し、さらには検察官からの「サリンを撒いて、どうしようと考えていたんですか。」との質問に対し、「私自身は、はっきり言えば、何も考えていなかったというのが正しいんですけれど・・例えば、裁判で勝つためにサリンを撒くとも思っていませんし、ちょっと、本当の意図というのは良く分かりませんでした。」、「私自身は、殺害まで考えてなかったというのが本当じゃないでしょうか。」と証言している(同丁)。
 このような新實の認識を伺わせるものとして、中村は、「日ごろの村井と新實の行動から、とりあえず行くと決めていたものを行った、形式的な終了というものにするつもりだった、としか中村は思わなかった」と証言している(中村尋問速記録第240回76〜77丁)。
 e また、D甲807の「私達は最終的には70トン近いサリンを製造し、大型ヘリコプターを使って都内に大量のサリンを撒いて首都を壊滅するような考えも持っており、新たに開発した装置をとりあえず松本で使ってみようという点も一つの大きなきっかけだったと思います」との供述については、新實自身が、「ちょっと後付け解釈に近いです」、「噴霧装置とヘリコプターとの因果関係はないですから」と認めるに至っている(同第207回90丁)。
 f 結局、新實は、サリンを撒く目的について、「私自身は、はっきり言えぱ、何も考えていなかったというのが正しい」、「私自身は、殺害まで考えてなかった」と証言しているのであり、オウム真理教が計画したとされている「武装化計画」が甚だ荒唐無稽であることからしても、捜査段階の供述に比べて、この点は、公判廷証言の方が信用性が高いと言うべきである。
 g なお、新實は、サリンを使った事件の第1段が、2回の池田事件、第2段が松本サリン事件、第3段が地下鉄サリン事件、そして最初に成功したのが松本サリン事件であった、と供述している。しかし、これに滝本サリン事件を加えた、サリンを使用した全ての事件に関与している中川は、「ずっとその間に何か流れがあったというような形でなくて、完全にぶつ切りで、ぽつぽつぽつと出てきている。事件を統一的に位置づけることができない。」と証言している(中川尋問速記録第184回4丁〜)。
 松本サリン事件の実行行為以外は、これら事件の背景を詳細に知る立場になかった新實の証言は、事件後の考察による後付けの推測に過ぎず、信用できない。
 1993年(平成5年)から1994年(平成6年)までに、中川らが従事していたさまざまなワーク、修行を前提とすれば、それぞれの事件は、思い付いたようにぽつぽつと命ぜられる多くの断片的なワークの一つに過ぎなかったという中川証言こそ、彼らの心情を正しく証言しているものである。
 とすれば、「最終的に70トン近いサリンを製造し、大型ヘリコプターで都内に撒き、首都を壊滅させるという考えを持っており、新たに開発した装置をとりあえず松本で使ってみようという点も、大きなきっかけであった。」との新實供述は単なる推論により述べた新實の意見に過ぎず、それを根拠付ける実体験を新實が有するわけではないのであるから、到底信用できない。
 さらに、もし、被告人が、このような一貫した計画を有していたとすれば、サリンに関連する事件のほとんど全てに何らかの形で関与している中川は、被告人のこのような計画を理解できたはずである。しかし、中川自身、「長期的な展望があって起こした事件とはとても思えない。」と証言しているとおり(中川尋問速記録第184回4丁〜)、全ての事件は、行き当たりぱったりの、無展望な事件であった。まさに、これらの事件を計画した人物すなわち村井の性格を如実に表現した証言である。
 h なお、中川は、検面調書(D甲804,4項)において、「サリンが大量に生成できるようになったときに備えて、サリンの噴霧方法も実験しておこうと思ったのかもしれない」旨の供述をしている。
 しかし、この供述につき、中川は、このような供述自体していない、と証言し、検事が、「まあ、こういう話も出てるからこういうこともあったんじゃないの。」という話をして、「そうかもしれませんね。」と言ったのを、このような供述として録取したと証言しているのである(中川尋問速記録第184回7丁)。
ウ このように、検察官が、本件の動機として主張するところの、松本支部での裁判の帰趨、オウム国家建設の野望、噴霧用ヘリコプターの準備、サリンプラントによる大量生産開始が目前に控えていた、という点は、ことごとく失当である。  とすれば、被告人が「上記の野望実現のための軍事力の決め手であるサリンの殺傷力を実験しておく必要があると考えた。」との検察官の主張は、根拠のない主張であることに帰する。
(2) 被告人と村井との話し合い
 ア 証拠に基づかない論告
 検察官は、被告人が「まず、村井と二人でサリン撒布計画を話し合った。」とし、「サリンは無色無臭であるというサリンの特性にこだわっていたことから、サリンを撤布しても人に気付かれる危険性は少ないと考え、昼間にサリン撤布を実行することを決定し」たとし、さらに「新たに加熱式噴霧装置を搭載したサリン噴霧車を製造し、同車を使ってサリン撒布を行なうことなども決定した。」とする。
 しかし、被告人が「まず、村井と二人でサリン撒布計画を話し合った。」との証拠は、全く存在しない。したがって、そこで話されたと検察官が主張する内容についても、そもそも全く立証のないものとされるべきことは当然である。
 イ 論告の内容の不合理性
 また、そもそも検察官の主張内容自体があまりにも不自然である。
 (ア) まず、検察官は、「白い煙が生じたという高頭の言葉を信用することができず、無色無臭であるというサリンの特性にこだわっていたことから、サリンを撤布しても人に気付かれる危険性は少ないと考え、昼間にサリン撒布を実行することを決定し」たとする。
 しかし、第2次池田事件では、新實、村井の乗った噴霧車を追跡され、危うく捕まりかける場面さえあったし、また、新實自身、「第2回目のいわゆる池田サリン事件において、噴霧したサリンのガスが夜でしたけれど目に見えた。」と証言しているのである。(新實尋問速記録第198回10丁)。昼間であれば、なおさら追跡は容易であり、逮捕される危険が大きいことは明らかである。それは、とりもなおさず、教団の崩壊に直結することである。
 ところが検察官は、それにもかかわらず、「白い煙が生じたという高頭の言葉を信用することができず、無色無臭であるというサリンの特性にこだわっていた。」というだけの理由で、被告人があえて危険を冒昼間撒くことにした、というのであり、主張それ自体があまりに不自然である。
 (イ) それのみならず、この点につき、中川の検面調書(D甲804,7丁)には、「この時期に松本サリン事件を実行すれば、警察が動き出して、第7サティアンで生成したサリン70トンを撒布するという計画がつぶれる可能性が非常に高いことは誰でもわかることであり、私は尊師が何を考えていたのかよくわかりません。結局のところ、尊師の宗教的な思いつきとしか言いようがない。」との供述がある。
 これは、中川自身が供述したものを録取されたものである(中川尋問速記録第184回11丁〜12丁)。中川の疑問は、まことにもっともであるし、検察官も、新實の検面調書(D甲807)の供述を踏まえてもなお、中川のこのような疑問を封殺できず、調書化せざるを得なかったものである。なお、宗教的な思い付きの内容については、中川は証言でも説明できなかったのであり、この時期に松本でサリンを撤くということが如何に教団の存続にとって危険でばかげたことか、なぜこのようなことを行なったかは教団の内部にいて幹部の地位にあった中川にさえ了解不可能なものであったことを明らかにする供述である。
 (ウ) それにもかかわらず検察官がこのような主張するのは、前記のとおり(第1,5、(2))「謀議」において、新實が、「サリンを昼間撒いて見えませんかね。」、「警察は来ませんかね。」と指摘した至極もっともな疑問、言い換えれば、「なぜそのような危険を冒して、サリンの撒布をしなければならないのか。」という払拭しがたい疑問を検察官自身が説明できなかったため、証拠のない「被告人と村井との二人だけの話し合い」の場面を設定し、架空の打合せを虚構せざるを得なかったのである。
(3) 6月20日頃の「共謀」
 検察官は、6月20日頃、本件事件の共謀が行なわれたと主張する。
 しかし、6月20日頃行なわれたとされる「共謀」とは、本件事件の実行行為に関する共謀と評価され得るものではない。  ア 「共謀」の状況について
 1994年(平成6年)6月20日頃、村井は、被告人、新實、中川、遠藤らの集まった席で、「車で、サリンを撒く。噴霧車はわたしが作る。」との提案をしたのである。村井がこのような提案をなすに至った経緯は、第1,3で述べたとおりである。検察官は、被告人が「オウムの裁判をしている。松本の裁判所にサリンを撒いて、サリンが実際に効くかどうかやってみろ。」と命じたとするが、このような事実はない。
 イ 集まったきっかけ
 まず、このメンバーが、どのようなきっかけで、一堂に会する結果となったのかは、明らかにされていない。以下これを便宜上「謀議」として述べる。
 「謀議」の最中は、誰が司会者という感じでも、また、会議という感じでもなく、何となく話をしましょうという感じでおのおのが発言している様子であり、そもそも、何のために集められたのか自体がはっきりしない集まりであった。
 また、「謀議」においては、村井の前記提案だけが話されたわけではなく、その目的で集められたものではなかった。村井の提案に関連して話がされたのは、10分程度の時間にすぎなかった。
  【中川尋問速記録(第179回2丁、第182回52丁〜、第184回(2)26丁〜30丁)、被告人陳述速記録(第34回40丁)】
 ウ 村井の提案と中川らの疑問提起
 被告人、村井、中川、新實、遠藤のいる場面で、村井が「魔法使いを撒く。自分が、噴霧車を作る。」という内容を述べ、続けて「昼間撒く。」と言った。
 村井は、教団で生成したサリンの効果を試す実験が相次いで失敗し、サリンプラント建設も行き詰まっていたのに対し、上記のとおり(第1,2、(2))、1994年(平成6年)6月初め頃も、サリンの噴霧方法の検討を続けていた。
 突然このような提案をしたのは、製造に取り掛かっていた加熱式の噴霧車の完成の目処がついたと考えた村井が、新しい噴霧方法を実験したいと考え、新たに製作した噴霧方法の性能をどうしても試してみたいという動機、さらに、その成功によりサリンプラントを継続させたいという意図があった。
 ところが、すでに池田事件を経験していた新實が、「サリンを昼間撒いて見えませんかね。」とその計画の危険性を指摘し、疑問を投げかけた。これに対し村井は、「絶対見えない。」と反駁した。
 しかし、池田事件で創価学会の警備の者に追跡された経験のある新實が、「警察は来ませんかね。」とその危険性をさらに指摘した。これに対し村井は、「警察が来たら排除すればいい。」と反駁し、さらに、「警察を最初から狙ったらどうか。」とも発言した(新實尋問速記録第198回13丁)。
 ところが、さらに中川が、「サリンを撤いているときに外に出たら危なくないですか。」と、村井の計画の危険性を指摘した。これに対し村井は「息を止めていれば大丈夫だ。」と述べて反駁した(新實尋問速記録第198回14丁)。
 このように、村井が突然持ち出したサリン撒布の提案は、その後新實や中川から次々に危険性を指摘され、村井が反駁するというやり取りに終始し、村井の提案は何ら具体化されることなく、10分程度で終了した。
 被告人は、村井がまた思い付きの話を始めたなという感じで聞いていたが、村井に対し、中川や新實らが繰り返しその危険性を指摘するというやり取りに終始したことから、村井の提案は否定され、村井も断念したものと考えた。
エ 実体なき「謀議」
 「謀議」でなされたやり取りは以上が全てであった。
 (ア) だからこそ、いつ実行するのか、実行行為のメンバーは誰にするのか、その役割分担はどうするのか、サリンを注入する作業は誰がするのか、サリンを撒く場所はどこであるのか、サリンを撒く目的は何であるのか、防毒マスクの準備等をどうするかなど、一切話題とならなかった。このように、「謀議」では、村井が「車で、サリンを撒く」ということを話題として出したとしても、もしそれを本当に実行しようとするのであれば、当然に話し合っておかなければならない事項は、全く話題にさえも出ていなかった。
 (イ) 「謀議」は、新實の証言によれば、「話がどんどん拡散していったんですね。最後は、収拾がつかなくなったと言う言い方はおかしいんですけれど、まあ警察の話が出てきたり、松本の裁判所の話が出てきたりして、で、終わっちゃったんですね。」というのである(新實尋問速記録198回、79丁)。
 これは重要な証言である。犯罪行為の「共謀」といいながら、収拾がつかなくなって終わったというのが新實の印象なのである。まさに、村井の提案に対して、新實、中川が、こもごも異論を唱える中で、攻撃目標もあいまいなままに収拾がつかなくなって終わったということである。
 また、村井が口にしたのは、「噴霧車で撒く。噴霧車は自分が作る。」ということであった。
 しかし、滝本サリン事件で述べたとおり、池田事件での噴霧車が失敗したことはその場に居合わせた者たちの共通認識であった。その噴霧車がいまだできていないということであり、さらに、噴霧車を村井が造るということであったから、被告人を含めその場の誰も噴霧車が本当に完成すると思っている者はいなかった。また、噴霧車をどのように改造するのかという話も、全く出ていない。村井の
過去の行状を知る中川などは、「またいつか投げ出すのかな。」と考えていたほどであった。
 したがって、6月20日にあったとされる「謀議」は、そもそも本件事件の共謀と評価されるべき実体を持たないものであり、被告人の共謀共同正犯の罪責は否定されるべきものである。
  【中川尋問速記録(第179回2〜7丁)、新實尋問速記録(第198回16丁)】
オ 大石寺への下見
 検察官は、6月20日、「実行メンバーや、犯行方法等の基本的な計画も決定した」と主張する(論告132Tb)。しかし、このように、本件「謀議」では、本件事件の実行行為について、何ら協議されていないし、決定されてもいない。
 次に述べるとおり、検察官の主張によれば本件事件の動機として最も重要な契機であるはずの「松本の裁判所に撒く」ということさえ、「謀議」で決定されていなかったことからも明らかである。
 (ア) 前記のとおり(第1,3、(5))、検察官が「共謀」があったとする6月20日から4〜5目が経過した6月24日か25日頃、遠藤と中川は、静岡県富士宮にある日蓮正宗の大石寺(静岡県富士宮市上条2057所在)に、村井の指示で、サリン撒布の下見をしている。
 (イ) 検察官は、この事実を意図的に無視しているかのようである。
 しかし、6月24,25日頃、大石寺を撒布の対象として下見をしていたとの事実は証拠に基づくものであり、検察官はこれに対する反対立証を全くしていないから、確たる事実として事実認定の資料とされるべきである。
 (ウ) この事実は、6月24日または25日になっても、どこにサリンを撒くかが決まっていなかったことを示すもので、検察官の描く本件事件の動機に重大な疑間を投げかけることになる。
 a 検察官は論告で、本件事件は、「被告人が、都市部の人口密集地でサリンの効果を人体実験しようと企て」、「教団の主張を排斥する可能性が強いと見られる地裁松本支部の裁判官及び支部付近の住民を多数を殺害しようと決意し」(論告115丁(イ)a)、その「決意」のもと、「村井と二人でサリン撤布計画を話し合い」(論告116丁)、その後に、6月20目の謀議に至ったと主張する。
 このような検察の主張によれば、地裁松本支部に撒くことは、本件事件の動機目的の中核であったはずである。
 b ところが、日蓮宗の本山である大石寺にサリンを撒くという計画は、「都市部の人口密集地でサリンの効果を人体実験しようと企て」ることとは矛盾するし、「教団の主張を排斥する可能性が強いと見られる地裁松本支部の裁判官及び支部付近の住民を多数を殺害する」こととは何らの関係もない。
 大石寺を、しかも6月20日の「謀議」の後に下見に行っていたという確固たる事実は、検察官の主張する本件事件の動機と全く矛盾している。それは、とりもなおさず、検察官が論告において主張する本件事件に至る構造(論告113丁、(7)、ア、(ア)〜(イ)a)そのものを否定し去るべき事実である。
カ 新實検面調書及び証言の信用性
 謀議の事実に関連して、検察官は、新實検面調書(D甲807号証5丁〜6丁、同809号2丁〜8丁)を証拠として摘示する。同調書部分には、被告人が「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンを撒いて、実際に効くかどうかやってみろ。」と述べた旨の供述がある。
 また、検察官は、新實尋問速記録第198回、第207回、第208回、第210回の各該当部分を摘示する'。同部分には、「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンを撤いて、実際に効くかどうかやってみろ。」との「趣旨の言葉を話した。」との証言がある。
 (ア) 新實は、法廷証言と検面調書との食い違いにつき、「調書になっているのはそのとおりだと思いますけれど、私自身が述べてはいないと思います。」と証言し、これに対し検察官が「あなたが述べていないのに、検察官に勝手に裁判官を殺害して裁判を妨害するというふうに書かれたという記憶はあるんですか。」と質問したところ、「変な言い方かもしれませんけど、ちょっと投げやりになっていたので、ある程度、筋書きがあるんだったら、どうぞ御自由にという形でした。」と証言している(新實尋問速記録第198回9丁)。そして、「新たなサリン噴霧の方法で大量殺害ができるかどうか試してみるという発想がまずあった。」との供述内容、「裁判官の殺害まで考えていた」との供述内容について、そのような認識はなかったと証言した(同5丁、9丁)。
 また、「被告人が、警察の排除は、ミラレパに任せると言った。」との供述内容についても、そのような供述はしていないと否定し、その理由につき「実質的にはそこまでの言葉はありませんでしたけれど、最終的にその人たちについては、私が担当することになったので、それを要約してそのような言葉にしたということで、ですから言葉自体はなかったんですけど、趣旨としてはそんなような趣旨だったからそれにまとめてしまった。」と証言している(同12丁)。
 この点は、警備の3人が指名された理由について、「被告人松本から、武道にたけているからと言われた」との趣旨の供述内容についても、そのような供述はしていないと否定し、その理由につき「その人たちがなぜ使われることになったのかという説明を私がしたところ、まあちょっとすりかえられた…尊師が言ったような言葉になってしまった。」と証言している点についても同様である(同12丁)。
 また、新實は、「謀議の際に、中川が防毒マスクを準備することになった。」との供述内容につき、実際は「誰がというのは決まっていなかった。」と証言し、「結論的な事実としては合っているんで、後知恵みたいな形でそこに入ってしまった、というのが正しい。」と証言した(同16丁)。
 このように新實は「実際にはなかった言葉を、趣旨として、被告人の言葉があったかのようにまとめて供述した。」と述べているのである。新實の供述には、このような部分が他にも存在することが考えられる。
 (イ) 新實証言の信用性
 新實のこのような性向は、供述内容にとどまらず、その法廷証言自体にも現われている危倶がある。すなわち、そのときに言葉で聞いたわけではないのに、後に体験した事実、後に明らかになった事実をもとに、あたかも過去の一時点でそのような指示をする言葉があったかのように証言している可能性がある。
 a 新實は、調書や主尋間で、被告人が「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンを撒いて、実際に効くかどうかやってみろ。」と述べたとの供述をしていることにつき、弁護人が「趣旨の理解とは、証人の解釈と言うことになるんじゃないですか。」と聞くと、新實は「そうですね。」といい、続けて「その言葉一句一句を述べてないですから、私の個人的な解釈でまとめてしまった。」と証言した。これは、とりもなおさず、被告人が「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンを撒いて、実際に聞くかどうかやってみろ。」との言葉を口にしたわけではないと言うことを認めるものである。そこで、弁護人がさらに「要するに麻原さんの生の言葉をそのまま覚えているのかいないのか、という点ではどうなのか。」と質問すると、新實は「ここで証言として述べるだけのはっきりとした生の記憶はございません。」と述べたのである(新實尋問速記録第207回75丁〜76丁)。
 さらに、新實は、弁護人の、「麻原さんは、裁判の邪魔をするということについては何か説明をしていたんでしょうか。」との質問に対し、「ご説明はあったと思います。」と言いながら、弁護人が「説明の言葉を覚えてますか。覚えてなければそういっていただいて結構ですよ。」と質問すると、「じゃ、はっきり言って覚えてません。一言一句までは覚えてません。」と証言した。(同76丁)。
 したがって、新實が、松本の裁判所でサリンを撒く、ということについて記憶している言葉は実はほとんどないと言っていいことが明らかとなった。
 b また、新實は、本件「謀議」の場面について、防毒マスクの話が出たと証言したのに関連して、「麻原尊師が、前のでいいんじゃないか、というふうに言われました。」と証言しながら、検察官から「村井ではないんですか。」と聞きなおされるや、「まあ、村井さんだと思います。」と訂正した。ところが、訂正した理由について、「ただ尊師もそれに同意していたので、ちょっと今言い方がおかしくなった。厳密に言えば尊師が直接言われた言葉ではない。」と弁解しているのである(新實尋問速記録第198回9丁16丁)。すなわち、もともと被告人が話した言葉ではないことを、あたかも被告人が話したかのようにごく自然に事実(自身の記憶)に反した証言をしてしまっているのである。
 また、第2次池田サリン事件について尋問された際にも、弁護人の「2回目の池田事件に参加するきっかけとなったのはどういうことか。」との質問に対し、新實は「村井さんから直接言われたようにも思いますけど、今現在はっきりしませんが、尊師からも同じように指示されたように思いました。」と証言したため、弁護人からその根拠を重ねて聞いたところ、全く答えることができなかった。このため、弁護人がさらに「実際には、こういうことをするんだから麻原さんから指示があってもおかしくないと考えて、指示があったと思いますと言っているだけではないのか。」と聞くと、「半分はそういう考えもあります。」と認め、「あとの半分は漢然とそう思う。」と述べたが、その根拠となる記憶はないことを認めた(新實尋問速記録第206回80丁〜83丁)。
 c ここに至ると、「被告人が話した。」との新實の証言部分は、果たして被告人が本当に話した言葉なのか大きな疑間があり、村井等が話した言葉を、周囲の状況から、法廷では被告人の言葉として証言している可能性が高いと言わざるを得ない。
キ 「謀議」の内容の不自然さ
 (ア) 検察官は、論告で、「被告人は、無色無臭というサリンの特性に強い関心を示し、本件計画の段階では現場にサリンの痕跡が残り、教団の犯行と疑われるとは思っていなかった。」のだと主張する(論告116丁、133丁)。これは、「サリン噴霧の実験行為から万一教団が疑われるようなことになると、教団自体の存続にかかわる重大な危機を招くことはあまりに明白であり、被告人としては、そのような行為を企図ないし指示することはあり得ない」との弁護人冒頭陳述(71丁)に対する反論でもある。
 しかし、検察官のこの主張は、もとより証拠に基づかないばかりでなく、非常識な主張である。
 (イ) 昼間撒くことの危険性
 a 論告は、被告人が企図した行為は、「昼間、松本の裁判所にサリンを撤いて、裁判官及び周囲の住民を無差別に大量殺薮するということ」であったとする。しかし、村井と被告人は、白い煙が生じたという高頭の言葉を信用することができず、無色無臭というサリンの特性にこだわっていたことから、サリンを撒布しても人に気付かれる危険性は少ないと考え、昼間にサリン撒布を実行することに決定したとするのである。
 b それでは、検察官の主張するところがそのまま実行される場面を想像してみよう。こういうことになる。
 「裁判所が開いている平日の昼間、松本市内の裁判所があり旦つ人口の密集する場所において、おそろいの作業服に身を固め、変装用のサングラスをかけた7人の男が、2台の車に分乗して、裁判所の前で、2トントラックのコンテナの荷台の扉を開き、10分間ほど停車していた。その間男達は全員、頭からビニール袋をかぶり、ワゴン車内の男達は、車外を警戒していた。10分後、コンテナ車は、開けっ放しの荷台の扉をバタンバタンといわせながら走り去った。その後、近くの工場の駐車場で、男たちは、偽造ナンバープレートをはずし、噴霧器を使って車を洗浄していた。」
 おそらく、一連の行為の中で、数回は職務質問を受け、あちこちで目撃され、追跡を受けであろうことが当然な事態である。被告人がこのような行為を実行しようとしていたというのは、それ自体不自然極まりないというのが弁護人の主張であり、にもかかわらず、「サリンは無色無臭であるから教団が疑われることがない。」と被告人は考えたというのが検察官の主張である。検察官の主張の非合理性は明らかである。
ク 妨害排除の担当の指名
 また、検察官は、被告人が、警察の排除を任せるとして3名を指名したとする(論告117丁)。
 しかし、この点も到底認めがたい。
 検察官の主張する松本サリン事件の共謀内容が実現されたとすると、次のような事態が生ずる。
 「昼間、松本支部の裁判所の前で、(上記のごとき)著しく不審な様子の7人の男達を不審に思って警察官または裁判所の警備の職員が職務質問をした。すると、4人の男達が、手に手に武器を持って、警察官等に暴行をなして抵抗した。」
 このような行為が、松本市の中心地である松本支部の所在地で行なわれたと予想した場合、無事に逃走できるはずがない。またもし、それがサリンの撒布中のことであったとすれば、彼ら自身が被曝して、逃走が不可能になる可能性も十分にあるであろう。
 被告人が「武道に長けた中村、富田、端本を使え。」などと指示することは考えられないのである。
ケ 裁判所宿舎への目標変更
 (ア) 検察官は、被告人が、裁判所宿舎への目標の変更を了承していたとする。そして、新實の証言(第198回46丁〜50丁)を摘示する。
 この証言は、ドライブイン八望の駐車場の場面として、村井と新實が、「裁判所は閉まっているけど、どうするか。」「今考えている。」「裁判所の官舎なら地図で調べられる。」とのやり取りがあった後、松本市内の住宅地図を示し、二人で調べて裁判所宿舎を見つけたあと、村井がその地図を持って公衆電話ボックスの方に歩いて行き、その後村井は、ワゴン車の近くまできて、「場所を官舎に変更する。」と言ってきた、として、被告人が目的の変更の指示または了解をしたとする。「村井が電話ボックスの方へ歩いていったので、被告人の指示を仰ぐのかなと思いました。」との証言である。
 被告人が変更を了承したとする検察官の根拠はこれ以外にはない。
 (イ) しかし、まず、この証言内容は、それ自体が不自然である。
 村井と新實が二人で話をしているのを目撃した中川の証言によれば、概要次の通りである。「途中、ドライブインの八望で停車した。すでに真っ暗となっており、車の中にいた中川からは、ドライブインからもれてくる光がなければ、新實と村井であるということも分からないような辺りの暗さであった。」と(中川尋問速記録第187回51丁〜)。
 このとき、八望の駐車場は真っ暗で、新實、村井であるかどうかさえ分からないほどであったというのに、新實は、「松本市内の住宅地図を示し、二人で調べて裁判所宿舎を見つけた。」というのであるが、そのような状態で、「松本市内の住宅地図を示し、二人で調べて裁判所宿舎を見つける。」ということができるとは思われない。
 (ウ) また、仮に漏れてくる灯りである程度場所を特定できたとしても、村井は正確な場所を地図で確認しておかなければならなかったはずである。ところが、辺りには、地図を確認できるような灯りは、公衆電話ボックス、自動販売機くらいしかなかった(新實尋問速記録第211回1丁〜5丁)。
 この点についての新實の証言は重要であるので引用する。
 (住宅地図は、村井と話をしているところでちゃんと見えたか)
 「私が官舎を探したのは車の中なんですね。中村さんとかにどうするんですかと言われて、考えてたのは車の中で諏訪の1回止まった一ところから八望までの間なんですね。そこの間で、ある程度、もしもの場合に備えて官舎の目星をつけていたんですね。ですから、私がちょっと証言を間違ったかもしれませんけど、八望で探したんじゃなくて、車の中で探して、それを村井さんに見せたという感じなんですね。」
 (新實が地図を持って村井さんと話すために車を出たときには、裁判官宿舎の場所も分かっていたということか)
 「地図上では分かっておりました。」
 (村井はその地図を見たときに、裁判官宿舎の場所をすぐわかったか)
 「地図を私が場所を示して見せたので、分かったと思うが、それが裁判所からどれくらい距離が離れ、松本市内にどういう形で位置するかというところを完全に把握できたかは分かりません。ただし、地図上で場所を示した以上は、その地図においての官舎の場所は理解できたはずです。」
 (村井に説明した後、地図を村井に渡したままか)
 「私の記憶では、手ぶらでトイレに行ったと思うので、地図は渡したままだと思う。」
 (村井は、自分で地図をもう一回確認したかったから、新實から受け取ったのではないか)
「そうだと思います。」
 (もともと地図はナビゲーターとして新實が持っていたほうがいいものではないか)
 「そうだと思います。」
 (八望の建物の中を除けば、周囲が明るかったところといえば自動販売機とか、電話ボックスの中くらいだったのではないか)
 「若しくはドライブインのお店屋さんの中というかその前くらいですね。中川さんがおっしゃったとおり。」
 (村井は、新實が渡した地図を詳細に確認するために灯りのある電話ボックスに向かったんではないか)
 「その可能性について私は否定する根拠はございません。」
 以上の新實の証言から明らかなように、村井が電話をしている場面については証拠が存在しない。
 もし村井が目標の変更の承諾を被告人から得るための電話をするために電話ボヅクスに向かったのであるとすれば、わざわざ地図を持参する必要などない。また、村井が電話をしていた場所は明るかったようであるが、この場面を新實を始め、誰も見ていないということは不自然である。
 また、もし地図を詳細に確認したいと考えたとすれば、自分の顔がドライブインの店内の人から確認されるおそれのある店内またはその灯りの漏れる場所で地図を確認するのは避けるはずである。また、自動販売機も、誰がやってくるか分からないのであるから同様に危険が大きい。
 これに対し、電話ボックスであれば、灯りはあるし、その中で地図を見ていても、電話帳を確認して場合と比べて何らの不自然さもないから、地図を確認するための場所としては、格好の場所である。
 村井が電話ボックスに向かったのは、新實から示された地図によって、裁判所宿舎の場所を詳細にべるためであったと考えるのが合理的である。
 したがって、検察官の摘示する新實の証言部分をもって、被告人が、噴霧対象の変更を指示または了承したとの認定はできない。
 (エ) さらに言えば、教団施設を出発した時刻は午後4時頃であったことから、裁判所を目標にできないことは出発の段階で明らかであった。わざわざこの段階になって、公衆電話から被告人に承諾を仰いだという検察官の主張そのものが不合理極まりない。
コ 新實証言の信用性について
 検察官は、共謀に関連する新實証言の信用性(論告130丁)について、第195回、第198回の新實証言を上げて、その信用性を縷々述べるが、後述するとおり、新實の取調べ状況等によれぱ、新實のこのような証言によっても、新實証言全体の信用性が担保されているとは到底いえない。
(4) サリンの殺傷力に対する被告人の認識について
 ア 論告の主張
 検察官は、被告人が、本件サリンの殺傷力を認識し、本件無差別大量殺りくの犯意を有していたとする(論告129丁(イ))。
 そして、まず、滝本サリン事件までの認識を挙げ、次に、本件においては、加熱式噴霧装置を搭載した噴霧器を準備し、これを使って大量のサリンを気化させて噴霧したこと、次に、実行犯が防毒用酸素マスクを着けて実行する計画になっていたことを挙げて、本件サリンの殺傷力を十分認識していたと主張する。
 しかし、これらの主張には理由がない。
イ ブルーのサリンの効果
 検察官は、被告人が、滝本サリン事件の当時から、本件で使用されたブルーのサリン(検察官のいう「青色サリン」)溶液の殺傷力を十分認識していたとする。
 しかし、この点については、滝本サリン事件の該当部分及び第1,2で述べたとおりである。
 すなわち、池田事件、噴霧実験、滝本サリン事件における、教団生成のサリンを用いた幾度かの事件または実験において、事件の実行や実験を担当した中川らや、噴霧実験の場に居合わせた土谷は、教団生成のサリンが一般に言われているサリンのような殺傷カを有していないとの認識を共有していた。
 また、前記のとおり(第1,2、(3))、村井も、1994年(平成6年)4月頃、土谷に対し、「ブルーサリンは化学兵器として評価できるか。」質問している。村井自身も、中川の噴霧実験の緒果を踏まえて、教団生成の「青色のサリン」について、その効力に疑問を持っていたのである。これに対し土谷は、「ブルーサリンは不純物の方が豊富なので、化学兵器として使えるような代物ではない。」と回答し、村井は「わかった」と答えるしかなかった。池田事件に使用した不純物のないサリンでさえ噴霧された側には何らの効果も出なかったのであり、ましてや不純物を多量に含むブルーサリンがサリンの効果を持つかどうかについて、村井も疑問を持たざるを得なかったのが、土谷への質問の理由であった。
 このように、中川や村井までもが、教団生成のサリンの効果に疑問を持っていたのであるから、彼らからの報告以外に情報収集の手段のない被告人が、中川らと同様の認識を有していたことは当然のことである。
 したがって、松本サリン事件の前までは、教団で生成したサリンに人を殺害する能力があるとは考えていなかったというべきである。
ウ 加熱式噴霧装置の認識
 また、検察官は、本件においては、加熱式噴霧装置を搭載した噴霧車を準備し、これを使って大量のサリンを気化させて噴霧したことをもって、被告人がサリンの殺傷力を認識していた根拠とする。
 (ア) しかし、そもそも、被告人が、本件で加隷式噴霧装置を使って大量のサリンを気化させて噴霧するということを知っていたという証拠はない。
 この点に関する検察官の主張は、「村井と二人でサリン撒布計画を話し合った」との場面で、被告人が村井との話し合いで「新たに加熟式噴霧装置を搭載した噴霧車を製造し、同車を使ってサリン撒布を行なうことを決定した」という主張のみであるところ、この主張は前記のとおり、全く証拠のない、検察官の作文に過ぎないのである。
 (イ) また、加熱式噴霧装置による噴霧器で多数の被害者が発生したというのは本件が初めてである。この方法でこのような結果が出るということは誰にも分からなかった。
 被告人が仮に加熱式噴霧装置による噴霧器を使用するということを知っていたとしても、そのことは、被告人のサリンの殺傷力への認識を根拠付けることにはそもそもなりえない。
 (ウ) また、「加熱式噴霧車」が「大量のサリンを気化させる」という目的で造られたということ及びそれを被告人が知っていたとされる証拠もない。
エ 防毒マスクの認識
 次に、検察官は、実行犯が防毒用酸素マスクを着けて実行する計画になっていたことをもって、被告人のサリンの殺傷力の認識の根拠とする。
 しかし、この主張は理由がない。
 (ア) まず、いわゆる「謀議」の際に、中川が、「サリンを撒いているときに外に出たら危なくないですか。マスクつけなくて良いですか。」と言ったところ、村井は、「息を止めてれば、大丈夫だから。」と答えた。このように、6月20日の「謀議」では、防毒マスクは使わないという話になっていた。(中川尋問速記録第184回8〜11丁、29丁)。松本サリン事件の実行現場では、マスクが使用されたとされているが、松本サリン事件に防毒マスクを使うという話は、6月24日頃、中川が村井から初めて言われたことである。
 (イ) しかも、そもそも中川が製作した防毒用酸素マスクは、その構造上車の中でしか身に着けることはできず、外には持って出られないものであった。したがって、村井の指示したマスクは、車外で警備にあたる者達は、噴霧中であっても、防毒マスクを着けなくても生命には影響がない、という村井自身の認識を示す指示である。
 (ウ) さらに、村井が中川に命じたマスクの構造も、「ビニール袋をかぶって中に空気のホースを入れて空気(または酸素)を噴き出す。紐で止めて脱げないようにしてくれ。」というものであり、生命を守るという観点からは、まことに杜撰なものに過ぎなかった。
 (エ) また、中川は、池田事件のときに使用された防毒マスクは見ておらず、村井の指示で初めて製作した防毒マスクの効果は特に実験してはいないし、村井から実験も指示されていないというのである。
 このような状況から、中川が製作した防毒マスクにどれだけ効果が期待できるか、甚だ疑問である。
  【中川尋問速記録(第184回(2)8〜11丁、29丁、25丁、26丁〜30丁、42〜45丁、61〜64丁、69〜82丁)】
 (オ) さらに、そもそも、新實さえも、防毒マスクによる防御に全く真剣ではなかった。
 中村は、概要次のように証言した。
 「第7サテイアンから犯行現場まで、中村はほとんど寝込んでいた。ビニールの袋をかぶるときもとくに説明はないままにかぶった。ビニール袋は、管の長さが決まっており車の外に出るにははずすしかないものであった。しかし、新實は、『ゴーといったら出てください。』と言った(中村昇240回証言速記録69〜73丁)。
 新實は池田事件で実際に被爆している。検察官の主張によれば、新實は死に瀕したのであり、サリンの恐強く認識していたはずの者である。もし新實が、検察官の主張するように生命の危険を感じていたのであれば、中村らにこのような指示をするはずがないし、防毒マスクの構造、とりわけホースの長さについて真剣に検討するはずであるが、全くこのような様子もなかったのである。
オ 実行行為者らの、サリンの殺傷能力についての認識
 論告には、実行行為者につき、サリンの殺傷力を認識していたかのような主張があるので検討する。
 (ア) 中川の警告の有無及び内容
 まず、中川が、サリンの毒性を知らない一部の実行メンバーに対してサリンの致死性を警告していたかのように主張する部分がある(論告120丁(エ))。
 検察官は、この主張に沿う供述調書として、中川の検面調書を摘示する(D甲805の10丁裏)。
 a 中川は、当法廷の証言で、「車中で、富田、中村に対し、噴霧したガスを吸うと視野が暗くなる、気分が悪くなる等の症状が出たら言ってくれ、と述べた。しかし、『非常に危険なガス、吸ったら死ぬ』との発言はしていない。そのようなことは言っていないと、警察の取調べ段階でも、この点は否認した。」旨証言した。
 そしてこのような調書になっている理由については、「死の危険性については何も供述していなかったが、検察官から『富田や中村もサリンということも分かっている、致死性を十分認識して言うんだから、認めてもこれで彼らが不利にはなるかどうかは、変わりがないから認めればいいんじゃないか。』と言われて署名捺印した。」というのである。
 この頃の中川の心理状態は、サリンの致死性を認めるかどうかで自分の刑が左右されるとは考えておらず、自分のことは考えていなかったため、検察官の上記説得に対し、富田や中村の不利にならないでのあればどうでもいいことだ、と考えて署名捺印してしまったものである。
 中川が、当法廷でこの点を否認するに至ったのは、「証言する以上はちゃんとしたことを言おう。」との決意からによるもので、他の共犯者を守る、または、自己の刑事責任を免れる、という目的に発したものではない。中川は、次のように証言する。
 「結局、やっぱりこれだけの事件を起こしているわけですから、自分としてはもうあまり長生きしようという気もないんですよね。調書を作る段階で。そういうことなんですよ。だから、殺意を認めるのが自分の不利になると、全然そういう気がないんですよ。その調書を作る段階で。そこにはこだわるはずだと思われるんでしょうけど、全然こだわってないです。僕は。」(中川尋問速記録186回82〜85丁)。
 b また、中川は、弁護人が、富田隆の検面調書(D甲792)を引用して、松本に向かう車中での会話として、「新實さんは比較的初めの頃、前にもろにかぶっちゃったけど大丈夫でしたよと言っており、事情が分かって聞いているらしい者は笑い声を上げていましたが、私には必ずしも何を言っているのかはっきり分かりませんでした。ただ、上九を出る前に、村井が前にもやったことがあると言ったのを聞いているので、新實は以前に毒ガスをかぶったことがあるのだろうかと思ったくらいでした」という内容の供述について尋間したところ、中川は、「そういう話はありましたね。笑い声を上げていたというんじゃなくて、新實さんが笑いながらそういうことを言っていた。そして、でも大丈夫でしたよね、ということを言ったんですよ。後ろを向いて僕に同意を求めてきたんですよ。だから、私が、息が苦しくなるかもしれない、あるいは目が暗くなるかもしれないということを言ったんだ。その流れでいったんです。だからやっぱり死ぬなんてことは絶対言ってないですよ」と証言している(中川尋問速記録第189回58〜59丁)。
 中川のこの証言部分は、富田の供述部分から記億が喚起され、そのときの場面を具体的に想起した結果なされたものであり、信用するに足るものである。
 c 以上のような、中川の各証言を検討すれぱ、検察官の摘示する調書部分の信用性がないことが明らかである。
 (イ) サリンの毒性の持続期間への認識
 次に、サリンの毒性の持続期間について、「本件サリンについては、1994年(平成6年)5月頃、佐々木が誤って吸い込んでサリン中毒になって私がパムを注射してやったので、人を殺す効果、毒性は十分に残っていると思っていた。だから、わざわざ新しい防毒マスクを製作して持っていったわけだし、サリン注入作業も、マスクをつけて極めて慎重に行った。」と供述している中川の検面調書(D甲806の8丁)がある。
 しかし、サリンの毒性の持続期間については、検察側によっても立証されておらず、中川がこれを知っていたという証拠はない。
 また、佐々木の被曝については、中川は、佐々木が正に至近距離で、松本サリン事件に使用されたサリンに被曝したということを佐々木から聞いたうえで、その症状として、縮瞳と若干の呼吸器の刺激のような症状、目の痛みといった症状しか認めていない。また、佐々木自身も、そのように証言している。しかもそれは被曝から20〜30分たっており、佐々木自身に呼ばれた、という状態のなかでの症状である。とすれば、中川が、佐々木の被曝したサリンの効力について命にかかわるような毒性はないと考えていたことは当然である。
(ウ) 中村、富田、端本らのサリンの殺傷力についての認識
 サリンの殺傷力についての認識は、他の共犯者についても同様であつた。
 a 端本は、新實の指示で松本市内への下見に行った際の模様について次のように証言している。
 端本は、南松本駅で、初めて新實から、「裁判所にサリンを撒く。」と言われたが、新實の口調は、いつもどおり軽く明るい感じであった。端本は、1993年(平成5年)9月からロシアに行っていたが、1994年(平成6年)3月にロシアから帰国後、教団に撒かれているのはサリンだという話が頻繁になされていた状況があり、他方で誰も入院したという話はなかったため、サリンという物質は有毒ではあるが鼻水が出る程度のものであると認識していた。そのため、このとき重大なことを言われたとの認識はなかった。端本は、自分が何のために運転をさせられたのかさえ理解できず、単に松本へのドライブに行って帰ってきた、という感じだけが残ったほどであった」(端本尋問速記録第98回48丁〜、53丁〜、60丁〜)。
 松本サリン事件の2〜3日後、教団の作ったワープロで打ち出したような壁新聞が、第6サティアンの2階に張り出された。端本は、人が死んだことを知り愕然とした。また、その後会った富田も、泣き崩れるような様子で、「人が死んだぞ。」とひどく動揺していた(同第102回90丁〜、106丁〜)。
 このように、松本サリン事件後、実際に松本で人が死んだという事実を知るまで、実行行為者であった端本及び富田は、サリンによって人が死ぬという認識を全く持っていなかったのである。
 b また、中村の証言によれば、次のとおりである。
 1994年(平成6年)6月27日午後1時頃、新實から「出発しますからきてください。」と言われ、ヴィクトリー棟に向かったが、このときも、行き先も教えられておらず、その後、モスグリーンの作業服に着替えさせられたが、着替える理由も言われなかった。着替えた場所は、ビクトリー棟の2階であったが、周りには実行行為に参加した者以外の複数の者が出入りしていたにもかかわらず、これを命じた新實には警戒する様子もなかった。そのため中村は、メンバーの顔ぶれから、被告人の警備関係で出かけると考えていた。その後、新實から、「松本に裁判を邪魔しに行く。」と聞かされたが、街宣活動でもするのかと思っていた。その後、中村、富田、端本は、空手の真似事をしてふざけたりしながら2時間くらい時間をつぶしていた。この間、新實から、警備道具を準備するよう言われ、中村は、特殊警棒を準備した。その際、富田が新實に対して「何を準備すればいいのか。」と尋ねたところ、「トンファをもっていったらどうか。」と言った。富田は、街宣車で行ったとき警官と衝突したときのことをイメージしていたので、全く現実感のない無責任な回答をした新實に立腹し、「ぼこぼこにしてもいいんですね。」と言った。
 このように、中村は、松本に向かう目的は「街宣活動でもするのかな。」と思っていたというのであり、そもそも、サリンを撒布するということ自体を知らなかった。それは、富田も同様であった(中村昇第240回尋問速記録44丁〜56丁)。
(エ) 新實検面調書(D甲810)の信用性
 a これに対し、検察官は、新實が、1994年(平成6年)6月27日早朝頃、第6サティアンの自室に、中村、富田、端本を集め、「松本に行って、松本の裁判所にサリンを撒いてくる。2トントラックに積む噴霧装置は村井たちが作って第7サテイアンの方に置いてある。サリンを撒いている最中に、警察などが来て妨害があった場合には、君たち3人でその妨害を排除して欲しい。」と指示し、その際富田が新實に対し、「何をしてもいいんですね。」などと、場合によっては妨害者を殺害しても構わないかどうかを確認したところ、新實は、「何をしてもいい。」と答えて、妨害者の殺害も辞さない心構えで臨むよう指示したと主張し(論告118Tb)、新實の検面調書D甲810の1丁〜7丁を摘示する。
 しかしながら、この供述部分は、信用できない。
 b まず、新實供述によれば、6月27日早朝頃にはすでに「2トントラックに積む噴霧装置は村井たちが作って第7サティアンの方に置いてある。」ことになっている。そして、「発足式の前後くらいに、村井から、27日午前中にサリン噴霧車が準備できるので、出発の用意をしておいてくれ、との趣旨の話を聞いた。」ということになっている(D甲810の5丁)。
 しかし、前記のとおり、発足式の最中の6月27日未明、中川が村井に対し「まだ準備できていない。」と耳打ちすると、村井は中川に対し「私もまだだ。」と答えていたという事実がある(中川尋問速記録第186回39丁、42丁)。また、もしその時間にすでに完成して第7サティアンに置いてあったとすれば、なぜ、松本の裁判所を狙うことなど不可能な午後4時に出発することになってしまったのか、全く説明がつかない。
 新實が、6月27日早朝頃に「2トントラックに積む噴霧装置は村井たちが作って第7サティアンの方に置いてある。」との供述をすることはあり得ないのである。
 c さらに、「富田が新實に対し、『何をしてもいいんですね。』などと、場合によっては妨害者を殺害しても構わないかどうかを確認したところ、新實は、『何をしてもいい。』と答えて、妨害者の殺害も辞さない心構えで臨むよう指示した」との主張に沿う供述部分も、全く信用性できない。
 新實の供述によれぱ、まず、富田が、「何をしてもいんですね。」と妨害者の殺害も辞さないような発言をし、新實が肯定したという流れになっている(D甲810の8丁)。
 しかし、富田は、本件事件の実行行為の前まで、犯罪行為と目されるような行為に参加したことなどない。そのような富田が、「何をしてもいんですね。」と妨害者の殺害も辞さないような発言をした、という供述内容自体が不自然極まりないものである。
 これに対し、中村は次のように証言した。
「新實から、警備道具を準備するよう言われ、中村は、特殊警棒を準備した。その際、富田が新實に対して『何を準備すればいいのか。』と尋ねたところ、『トンファを持っていったらどうか。』と言った。富田は、街宣車で行ったとき警官と衝突したときのことをイメージしていたので、全く現実感のない無責任な回答をした新實に立腹し、『ぼこぼこにしてもいいんですね。』と言った。」(中村昇第240回尋問速記録44丁〜56丁)。
 富田は、新實の「トンファ」という武器を持って行ったらどうかという、突拍子もない無責任な発言に立腹して、「それなら、ぼこぼこにしてもいいと言うんですね。」と、つまり、「そんなことをして、とんでもない事になったらどうするんだ。」との趣旨で喰ってかかったというのが真実なのである。
 d 新實供述は、続けて「たぶん富田が、『では何か武器を持っていこう。ヌンチャクかトンファでも探しておく。一人で五人は大丈夫だ。』と威勢のいいことを言」ったとし、「彼らが実際にどのような道具を持っていったかどうかは、結果的に使わずにすんだせいか余り記憶がない」とされている。
 しかし、上記中村証言のとおり、「では何か武器を持っていこう。ヌンチャクかトンファでも探しておく。一人で五人は大丈夫だ。」という発言はそもそもないし、トンファという言葉を口にしたのは新實自身である。
 さらに、中村証言によれば、実際に持っていったのは「特殊警棒」であり、到底「妨害者の殺害も辞さない」というような武器ではないのである。
 e 以上のとおり、新實のD甲810の検察官が摘示部分は、全く信用するに足りない。
 それにもかかわらずこのような調書ができたのは、新實が積極的に虚偽の供述をしたというよりは、後述するとおり、検察官の作った筋書に新實が全く抵抗せず、署名捺印したことによるものと思われる。
(5) 新實の検面調書及び公判廷証言の信用性
 ア 検察官は、第198回の新實証言「被告人自身は、無とんちゃくの実践をされているから、私が何を言おうが苦しまないので、話をすることにした。」(46丁〜50丁)を引いて、信用性があるとする。
 しかしそもそも、本件についての新實の公判廷証言及び検面調書の信用性については、大きな疑問のある部分がある。
 検面調書については、逮捕された後、捜査側の誘導に従って、何らの抵抗なく調書を作成されたと思われることである。

 他方、公判廷証言については、弁護人からさまざまな事実を教えられ、事件当事者の事件記録を読み、その過程で、後付けの理解で事実を整理し直したため、記憶そのものが変容し、または、自身で想像または創作した事実が、記憶と混在化されている可能性が高いということである。仮に新實自身は、公判廷証言で事実を証言しているつもりであっても、そもそも、証言の基礎となる現在の記憶自体が、後に本人の意識の中で変容または創作されていたとすれば、その内容の真実性については担保されようがないのである。
イ まず、すでに述べた部分を含め、新實の供述または証言の信用性に対する明らかな疑問点がある。
 (ア) 松本の下見について
 a 新實は、D甲807の11丁において、「端本に道順を覚えさせるとともに、マニュアル車に慣れさせておく必要があったので、端本と二人で下見に行くことにした」と供述する。
 ところが、端本は、マニュアル車の運転はもともと慣れており、また、新實は、車に乗り込むや、松本に着くまで眠り込んでおり、道順の指示など全くしていない。端本が、この点につき、虚偽の証言をなしても、自身の罪責には影響のない部分であり、かつ、端本以外は知り得ない事実を証言したものであり、その信用性は高い。新實の供述部分が真実でないことは明らかである。
 b また新實の検面調書には、松本への下見の際の指示として、「地図を見ながらナビゲーターをしていた。端本に緊張感を持たせるために、車内で端本に松本でサリンを撒くこと、そのために風向きや駐車できる場所を探しに行くと話した。」と、いかにも具体的で、合理的な理由が付された供述部分がある。
 ところが、端本の証言によれば、新實は、車に乗るや否やすぐに、「かくっ」という感じで寝入り、そのまま2時間ほども寝入っており、端本は全く会話をすることもなかったし、端本に道の案内もしなかった、というのである(端本尋問遠記録第98回、57丁〜)。
 c また、新實は検面調書で、松本に下見に向かう際、「地図と携帯電話は、自分の車から端本の運転する車に移し変えた。」と供述しているが、端本の証言によれば、「携帯はないですよ。電話ボックスで電話していましたから。」というのであり、この供述も事実に反する。(端本尋問速記録第98回48丁〜)
 d 新實が、このような点で虚偽の供述をする必要もないのに、なぜこのように事実に反する供述が調書に記載されているのか、それは、新實が、捜査側の誘導に対し、全くこだわらず、また、反論しようともせず、調書の作成に応じていたことを示している。
 (イ) 松本サリン事件の背景事情について
 新實は、D甲807において、「最終的に70トン近いサリンを製造し、大型ヘリコプターで都内に撒き、首都を壊滅させるという考えをもっており、新たに開発した装置をとりあえず松本で使ってみようという点も、大きなきっかけであった。」と供述している。
 しかし、中川証言によれば、そもそも、謀議があったとされる6月20日の段階では噴霧車はまだ全然できておらず、できたから使うという話はあり得ない(中川尋問速記録184回4丁)。
 なお、新實は、D甲807において、「サリンを使った殺害計画は、最初は失敗の連続で、噴霧装置や方法、防毒マスクに関して、失敗と試行錯誤を繰り返し、初めて成功したのが松本サリン事件であった。」と供述しているが、実際には防毒マスクを試行錯誤したとの事実はない(中川尋問速記録第184回24丁)。
ウ 新實の検面調書は、本件では、次のものが採用されている。
 平成7年7月7日付け検面調書(D甲807)
 同年7月12日付け検面調書(D甲808)
 同年7月27日付け検面調書(D甲809)
 同年8月2日付け検面調書(D甲810)
 (ア) 新實の取調状況について
 新實の証言によれば、同人が逮捕され起訴された事件における取調状況は、概要下記のとおりである(新實尋問速記録、第215回、 第216回)。
 a 元看護婦中原監禁事件
 (逮捕日1995年(平成7年)4月12日、起訴日同年5月3日)
 教団の青山吉伸弁護士が1回接見した。新實は取調べに対して黙秘していた(第215回76丁)。新實だけが捕まっており、共犯者たちは捕まっておらず、「私がほかの人のことを言うのは、その時点ではあまりよろしくないかと思った」からであった(同80丁)。
 b 松本剛犯人隠匿関連事件
 (逮捕日1995年(平成7年)5月8日、起訴日同年5月23日)
 青山弁護士が5月3日に逮捕されたため、私選弁護人はおらず、当番弁護士が接見に来たものの、事件の内容については相談できず(同82丁)、新實は、取調べ途中から供述を始めた(同80丁)。また、地下鉄サリン事件についての取調べも行なわれ(同83丁)、弁護人に相談することもできないまま、5月22日には、同事件についての検面調書も作成された。
 c 地下鉄サリン事件
 (逮捕日1995年(平成7年)5月23日、起訴日同年6月13日)
 新實は、弁護人のいないまま、弁解録取の際には、地下鉄サリン事件への関与を認める供述をしたが、5月25日、弁護人が接見し、接見時間は「ほんの5分か10分ぐらい」ではあったものの、事件の全体像が分からない状況下において、弁護人に勧められ、「取りあえず黙秘」することとなった(同90丁)。しかし、その後の弁護人の接見はなく、当番弁護士に私選弁護人になってもらうよう相談をしても、「できない」と断られた(同92丁)。
 d 落田事件
 (逮捕日1995年(平成7年)6月21日、起訴日同年7月11日)
 6月21日から7月11日の間、新實には私選弁護人はおらず、接見したのは当番弁護士のみであり(同93丁)、事件の内容については相談できないままであった(同94丁)。他方、被告人は5月16日に逮捕されていたが、警察の方から「麻原尊師が供述をした」と言われ、新實は、その警察の話が本当なのか、どのような内容の供述なのか弁護人に相談することもできないまま(同98丁)、途中から供述し始めた。
 また、松本サリン事件についても、7月7日には検面調書が作成されたが、勿論、弁護人はいないままであった。
 e 松本サリン事件
 (逮捕日1995年(平成7年)7月16日、起訴日同年8月7日)
 松本サリン事件の逮捕後、私選弁護人が接見に来ることもあったが、「30分前後ぐらい」の接見で、その弁護人は、「法廷、公判の場で争えばいいから」と言うだけで、「細かい事実関係については聞か」ないような状態であった(新實尋問速記録第215回101丁、102丁)。
 新實は、事実関係についての確認や今後の見通し等について弁護人に十分相談することもできないまま、「尊師も黙秘をしなくなったんで…今まで何のために黙秘をしていたのか…そういった意味が失われて、あとは、もう、どうでもいいやというふうに投げやり」になり(同102丁)、裁判官を殺害する意図までなかったにもかかわらず、捜査官に「妥協し」、殺害する意図であったと供述したのである(同105丁)。
 また、サリンの致死性の認識についても、後述するとおり、第2次池田事件の際の自らの被曝体験からして、「ちょっと離れてしまえば大丈夫だよ。」という程度の認識しかなかったにもかかわらず、あたかもサリンの致死性を確定的に認識していたかのような一連の供述をさせられるに至ったのである。
 f 取調状況
 捜査官による取調べは、「黙秘しているときには、朝9時くらいから始まって、夜10時、11時くらいまで」なされ、供述するようになってからも「朝は10時くらいから夜は大体7時くらい」まで連日取調ぺがなされていた(新實尋問速記録第216回6丁)。
 これに対し、弁護人の接見は、そもそも弁護人のついていなかった時期も相当期間あるばかりか、上述したとおり短時間の接見が数回あったに過ぎず、事実関係について弁護人と十分に話ができる状態ではなかった。
 (イ) 以上のような逮捕とそれにつづく取調べ経過の中で、新實が途中から供述を始めたのは、捜査官から被告人が供述をした旨聞き、「尊師も黙秘をしなくなったんで…どうでもいいやというふうに投げやり」になったためであり(第215回102丁)、供述する以上は真実を話そうとする態度ではなかったのである。
 (ウ) また、サリンの致死性の認識の点では、松本サリン事件における多数の死傷者を前にして、「結果として、こういった形の亡くなられた方とか出たわけですから、そういった結果の前に対しては」、自らの本当の認識を「言えなかった。」のである(第216回11丁)。「そういった結果の前には、白分たちの認識とか、そういったものについては何の意味もないんじゃないかなというふうに考えてしまったからですね。ですから、私としては、生じた結果について、それを受け入れようという形でしか物事を余り考えておりませんでした」(同丁、12丁)という心理状態になっていたのである。
 (エ)このような状況下で作成された新實の捜査段階における検面調書に信用性があるとは到底言えるものではない。
エ 公判廷証言の信用性
 公判廷における新實の証言は、このような心理状態からある程度解放され、検面調書上の検察官の誘導によって作成された部分を否定する証言を行なう部分があった。
 (ア) 信用性のある証言について
 例えば、「サリンの致死性の認識を否定する証言」や「無差別大量殺りく及び裁判妨害の目的を否定する証言」、また「中村及び富田に関する証言」は、十分に信用できるものである。
 a サリンの致死性の認識を否定する証言
 これについては、滝本サリン事件で詳細に述べたとおりであるが、補足して述べる。
 この点に関する新實の証言は、具体的で自然であり、中川らの当公判廷での証言とも合致しており、十分信用できるものである。
 そして、サリンの致死性につきこの程度の認識であったことは、新實だけでなく、村井らもそうであったものと思われる。
 すなわち、新實証言によっても、松本サリン事件の謀議があったとされる6月20日頃の会合で村井らが話したことは、「結局、噴霧車の防毒マスクは必要、ただしそれは前と同じでいい。外に出る人、警備する人のマスクはいらない、息を止めていればいい。ワゴン車に乗っている人の防毒マスクについては話題にない」というものだったのであり(第208回44丁)、この「外に出る人、警備する人のマスクはいらない、息を止めていればいい。」との話は、正に、サリンの致死性について、「ちょっと離れてしまえば大丈夫だよ」という程度の認識だったからに外ならないのである。
 また、新實は、「(上九一色村から松本へ向かうワゴン車内に会話として)『前にもろかぶっちゃったけど、大丈夫でしたよ。』という発言(新實尋問速記録第209回35丁)をしてもおかしくない程度のサリンに対する認識だった。」旨証言したが、これも第2次池田事件において述べた新實の症状からすれば、このような発言が、ワゴン車内の会話として行なわれたとしても、何ら不自然でないのである。
 したがって、他方で、新實の捜査段階における「防毒マスクを外すと一発でやられるということがはっきりした。」(D甲808,11項)とか、「私自身危うく死にそうになった経験もある。」(D甲809,5項)とか、「サリンについては、私自身は池田事件の時にその怖さは身をもって体験しているので、白い煙となって流れていくサリンを直接吸ったり浴びたりすれば、解毒剤など急には用意できないでしょうからその人はまず間違いなく死ぬだろうと思っていました。」(D甲810,20項)などの供述は、全く事実に反しており、上述したような取調べ過程において「投げやり」になっていた新實が、弁護人からの援助もない中で、捜査官に「妥協し」て作成されたものに過ぎないのである。
 b 「無差別大量殺りく及び裁判妨害の目的」を否定する証言
 新實は、公判廷において、松本サリン事件の目的として、70トンのサリンを作る価値があるかどうかを確かめる実験目的があったことは認めるものの、それを超えて、新たに開発したサリン噴霧装置で大量殺害できるかどうかを実験する目的や、地裁松本支部において教団信者が当事者となっている民事裁判が係属中であったことから、サリンを噴霧して担当裁判官を殺害するなどして、同裁判を妨害する目的については、否定的な証言をした。
 前記のとおり、そもそも裁判妨害の目的については、当時、オウム真理教側で民事訴訟を担当していた元弁護士の青山吉伸証人が、民事訴訟記録に基づいて詳細な証言をしており、それによれぱ、松本地方裁判所の裁判を妨害する目的などあり得ないことは明らかである。したがつて、新實が捜査段階で、「民事訴訟の提起や、裁判所の審理の進め方はオウムヘの迫害であると理解しておりましたので、その事件を担当している裁判官をサリンを噴霧して殺害し、裁判を妨害しようと考えました。」と供述している部分は(D甲807,1項)、全く信用できない。
 また新實は、公判廷おいて、サリンを撒く目的について、「裁判のじゃまをするためだと思います。」と一旦は証言しているものの(新實尋問速記録第198回4丁)、何故邪魔をする必要があるかについては、「なぜかは分かりません」と証言し、さらには検察官からの「サリンを撒いて、どうしようと考えていたんですか」との質間に対し、「私自身は、はっきり言えば、何も考えていなかったというのが正しいんですけれど・・例えば、裁判で勝つためにサリンを撒くとも思っていませんし、ちょっと、本当の意図というのは良く分かりませんでした。」、「私自身は、殺害まで考えてなかったというのが本当じゃないでしょうか。」と証言している(同8丁)。
 また、D甲8073の「私達は最終的には70トン近いサリンを製造し、大型ヘリコプターを使って都内に大量のサリンを撤いて首都を壊滅するような考えも持っており、新たに開発した装置をとりあえず松本で使ってみようという点も一つの大きなきっかけだったと思います。」との供述部分につき、新實自身が、「ちょっと後付け解釈に近いですけどね」、「噴霧装置とヘリコプターとの因果関係はないですから」と認めるに至っている(第207回90丁)。
 結局、新實は、サリンを撒く目的について、「私自身は、はっきり言えば、何も考えていなかったというのが正しい」、「私自身は、殺害まで考えてなかった。」と証言しているのであり、オウム真理教が計画したとされている「武装化計画」が甚だ荒唐無稽であることからしても、捜査段階の供述に比べて、この点は、公判廷での証言の方が信用性が高いと言うべきである。
c 中村らの認識に関する証言について
 (a) 検察官は、論告において、中村及び富田に対する指示状況についての証言につき、「中村らが死刑や無期懲役になることを避けるために検面調書と異なる証言をした」と主張する(論告132頁)。しかし、検察官の当該主張はまったく失当である。
 (b) まず前述したとおり、新實のサリンの致死性についての認識は、「ちょっと離れてしまえば大丈夫だよ」という程度のものだったのである。
 また、新實の証言では、6月20日の話し合いの際には、「外に出る人、警備する人のマスクはいらない、息を止めていればいい。」と話されていたのであって(第208回44丁)、深刻に身の安全を考えるような状況になかったことは明らかである。
 事件当時の村井や新實らのサリンの致死性についての認識が「ちょっと離れてしまえば大丈夫だよ」という程度のものだったこと、「外に出る人、警備する人のマスクはいらない、息を止めていればいい。」と話されていたこと等からして、新實の「中村、富田に対しては、警備としての役目を果たせばそれで足りると思っていたので、現場でサリンを撒くということまであらかじめ知らせておく必要はないと考えていた」趣旨の証言(第198回30丁〜42丁)は自然であり、十分信用できるものである。
 (c) これに対し、検察官は、新實が「控訴審で争っている中村、富田をかばうため、同人らに有利な、あるいは同人らの供述に符合する虚偽供述をしているとする。しかし、全く的外れな主張である。
 富田については、新實の証言の有無にかかわらず既に控訴審において控訴は棄却され、刑は変わらなかったのであり(新實尋問速記録第210回1丁)、また一審で無期判決が言い渡された中村について、新實は、「中村さんに対しての死刑求刑自体は、私の弁護人も検察官の嫌がらせだということを言ってますから、それ以上の死刑には到底なり得ないと思って」いるのであって(同第198回57丁)、同人らを「かばうため」証言する必要など全くないのである。
(イ) 新實証言全般について
 このように、新實証言には、その検面調書の信用性について証言する部分に関し、信用性の高い部分がある。
 しかし他方において、その証言の信用性について大きな疑間を抱かせる部分もある。
 もともと新實は、オウム真理教の信者・幹部として、その宗教観、世界観を強く抱き続け、取調べにおいても公判廷においても、理念的な観念の世界と具体的な事実の領域との区別をつけないまま、両者を混同して供述することが多い。そして、新實の公判廷証言には、新實が逮捕され裁判になってから得た知識を基に、事件を再構築して説明していると思われる箇所が多い。
 a 例えば、新實は、冨田事件における証言において、バガヴァット・ギーターを引き合いに出して、冨田殺害の動機に関わる点について説明しているが(新實尋問速記録第205回)、新實は事件当時にバガヴァット・ギーターを読んでいたわけではなく、逮捕後に読んだものであるから、新實の当該証言は、後から振り返って「当時」の心境として説明しているのである。
 b また、新實は、同じく冨田事件において、教団は武装革命を目指していた旨証言しているが、すでに指摘したとおり、その根拠としては、井上嘉浩がそのような言動をしていたことを挙げており、これについても、井上が当時そのようなことを言っていたのではなく、井上が裁判においてそのような証言をしていることを挙げているのであって(新實尋問速記録第201回)、やはり新實の当時の認識ではなく、現在から振り返っての後知恵の説明である。
 c さらに、松本サリン事件においては、新實白身、サリンを松本で使用する目的について「後付け解釈に近い」と、自ら当時の認識とは異なることを認めていること(同第207回)もすでに指摘した。
 以上のとおり、新實証言は必ずしも新實の当時の認識を証言しているのではなく、現在の立場からの「説明」である部分が極めて多いのであって、同人の公判廷証言は、この意味で信用しがたいものがあるのである。
 d 検察官は、論告において、新實が、当初の証言拒否の態度を改めて被告人の関与について証言した理由について「被告人自身は、無とんちゃくの実践をされているから、私がなにを言おうが苦しまないので、話をすることにした。」旨証言しているとして、「八望」で撒布の目標を変更する旨の打合せを村井と被告人が公衆電話で行なったと思う、旨の証言の信用性を主張する。
 そもそもこの証言が、目標の変更についての村井と被告人の打合せを根拠付け得るものではないことはすでに指摘したとおりであるが、さらに、「被告人自身は、無とんちゃくの実践をされているから、私が何を言おうが苦しまないので、話をすることにした。」旨の証言についても、これが「新實独自の宗教的な信念に基づいて証言した」(論告131頁)との検察官の主張も全く失当である。
 まず「新實の独自の宗教的な観念」なるものについて、検察官はこれを立証の段階でも全く明らかにすることがないから、何ゆえそれによって、新實証言の信用性が担保され得るのかがそもそも明らかでない。根拠なき主張である。
 さらに、取調べ経過で述べたとおり、新實は、途中から供述を始めた理由について、捜査官から被告人が供述をした旨聞き、「尊師も黙秘をしなくなったんで…どうでもいいやというふうに投げやりになった」ためであり(新實尋問速記録第215回102丁)、供述する以上は真実を話そうとする態度ではなかった。被告人が「無とんちゃくの実践をしているから私が何を言おうと苦しまない」と新實が考えたとしても、何ゆえ真実を語り始めたということが担保され得るのであろうか。  また、「新實独自の宗教的な観念」があるとしても、それは、先にも述べたとおり、公判段階になって再構築された後付の理屈いわゆる後智恵に過ぎない。
 検察官の主張は失当と言うしかない。
(6) 端本検面調書(D甲801)の信用性
 新實の検面調書の信用性との関連で、端本の証言を多数引用しているが、その信用性に関連する範囲で、端本の検面調書(D甲801)の信用性について検討する。
 ア 取調状況及び本件調書作成過程について
 以下、端本の公判廷証言から取調状況・調書作成過程に関連する部分を列挙するが、取調べ・調書作成の状況から、本件供述調書には信用性がないことは明らかである。
 (ア) 第94回9丁〜10丁、第98回92丁〜95丁
 この部分は、下見の理由の一つがマニュアル車の練習のためであったとの、新實検面調書との整合性のために、検察官が端本をしつこく誘導した経過が明らかとなっている。
 (イ) 第94回13丁、第98回107丁〜108丁
 この部分は、高速道路を使用しなかった理由について、ロジックで追及されて、根負けして言いなりの調書になったことが明らかとなっている。
 (ウ) 第98回111丁〜112丁、
 この部分は、下見のルートについて、端本は全く記憶がなかったのにもかかわらず、地図を示されて誘導されたことが明らかとなっている。
 (エ) 第94回20丁〜21丁、101丁
 この部分は、サリン噴霧による人の死の認識について、サリンというのは毒ガスで兵器としても使われているから、そういうものを撒いて人が死ぬと思わないことのほうがおかしいのじゃないかと、「緒果が出た以上知っていたはずだ。」という、まことにおかしな論理で追及されて、押し切られた経緯が明らかとなっている。
 (オ) 第94回25,100回24丁〜31丁
 この部分は、裁判が不利な状況になっているとの証人の認識について、「裁判所って聞いたら、そういうふうに考えるのが普通ではないか」と言われて根負けしたという経過が明らかとなっている。
 (カ) 第94回36丁〜38丁
 この部分は、タバコでサリン噴霧車の位置を探したとされる点についてであるが、行なったときの新實の様子をタバコを吸ったとは話したが、それを、検察官が勝手に「たばこでサリン噴霧車の位置を探していた」との供述にまさしく「仕立て上げた」ことが明らかになっている。
 (キ) 第94回41丁〜42丁
 この部分は、サリン噴霧車の運転についての新實の指示についての証言であるが、新實から「松本の裁判所にサリンを撒いてくる、サリン噴霧車の運転はガフバに頼む。妨害があったら排除してほしい。」というような意味のことを言われたとの供述が、しつこく繰り返されて、端本自身はその意味するところさえ分からないまま供述として録取されたことが明らかとなっている。
 (ク) 作業着購入の証言について
 この点に関しては、「レシートを確認してもそうだった。じゃあ分かってるんじゃないか。」と理詰めで聴取されたことが明らかになっている(第94回46丁〜47丁、第102回13丁〜14丁)。
 (ケ) サリン噴霧車を移動したことについて
 本来は記億ないにもかかわらず、「隠してもしょうがないし、検事さんて、僕、取調べのときはそこまで悪意あるとはちょっと分からなかったけど、冗談じゃないですよって感じで笑い話していたにもかかわらず、調書化されていた。」という経緯が明らかになっている(第94回52丁〜53丁)。
 (コ) 実行犯メンバーの役割の認識について
 中村昇に関しては、端本は分からないまま、検事に、なんで行ったんですかねと聞いたほどであったにもかかわらず、「サンボも強いし、警備で行っている。」という全く違う内容の調書になっていることが明らかとなっている(第94回63丁〜64丁)。
 (サ) メスチノンを飲んだか否かについて
 実際には、端本は、全然見ていないし、記憶もないにもかかわらず、これに反する調書が作成されたことが明らかである(第94回68丁〜69丁)。
 (シ) 村井から「ステージを上げる前には煩悩の誘惑が多いから、それを乗り越えるのは大変だよね、頑張ってね」と「激励」されたとの供述について
 関する部分であるが、これは単に、端本の女性間題に関する村井の発言に過ぎなかったものを、あたかも、松本サリン事件への決意を促すかのように調書化されたことが明らかとなっている(第102回210丁〜212丁)。
 (ス) 駐車場で風向きを調べるためにたばこを吸ったとされる点について
 単に吸いたいから吸ったに過ぎないタバコを、あたかも風向きを調べるために吸ったかのように検察官が勝手に調書化した経緯が明らかとされている(第94回82丁〜83丁)。
 (セ) 裁判所宿舎に向けてサリンを噴霧することの認識について
 端本は、そもそも宿舎という言葉は聞いておらず全くわかっていなかったにもかかわらず、「駐車場のすぐ近くに裁判所宿舎があることが私にも分かりました。」と調書化された経緯が明らかとなっている(第94回93丁、第102回94丁〜97丁)。  (ソ) 調書を確認して署名したことについて
 検察官が、教団の構造を「強固な一枚岩に見えたけど、不信と不満がマグマのように吹き出ているね。」と、教団が一体化となって武装化という雰囲気ではないこと、教団の空気というのは、要するに、サリンといっても、いわゆる言葉の慣れみたいな感じでぼけちゃった部分があるとか、理解を示すような発言をして、端本の中で安心感を醸成させたり、地下鉄事件で指名手配であったのを、取調べが終わったら殺人予備に変えたりするなかで、検事に信頼感を寄せるようになった端本が、罪悪感に付け入られた結果、署名捺印した経緯が明らかになっている(第94回123丁〜127丁、第102回25丁〜26丁)。
イ 端本の取調状況及び検面調書作成過程は、以上のとおりであった。
 すなわち、端本は、地下鉄サリン事件での嫌疑が比較的早い時期に晴れたこともあって、捜査官に対して信頼感を抱いたが、捜査官はそのような信頼を逆手にとって、かつ、証人の罪悪感に付け入って、捜査官にとって都合の良い内容の調書を作成していったのである。
 証人の記憶がないところや記憶が暖味な部分は、他の証拠等(レシート等)を示したり、「このように考えるべきではないか」などとして、事後的に整合するからとの理由(証人の言うところの「ロジック」)で証人を説き伏せ、その一方では、証人の抗弁に真剣に耳を貸すことなく「根負け」させ、その結果、それが証人の実際の記億・認識ではないにもかかわらず、そのようなものであったとする内容の調書を作成したのである。ただでさえ、罪悪感にさいなまれている証人にとっては、「結果として」そのようなものであったと「ロジック」で追及されれば抵抗する術もなく、事実と異なるとの認識を有しつつも、捜査官の主張を受け入れざるを得なかったのである。
 さらに加えて、同証人は、その罪悪感から、何らかの形態であれ本事件に関与したことは間違いないのであるから、捜査官の主張を認めるのが潔いとの心境にあったことや、いずれ裁判の場で話せば真実は理解してもらえると思っていたことなどから、本件調書に署名したのであった。
 以上のとおり、本件調書には全く信用性はないのである。同証人が繰り返し、「悲しい」と証言しているのは、同人の信頼を踏みにじり裏切った捜査官に対する気持ちを率直に表現したものである。
(7) 謀議に関する遠藤証言
 ア 検察官は、論告(114丁)において6月20日の謀議の場面について、遠藤の証言を摘示している(遠藤尋問速記録第103回5丁など)。
 しかし、謀議に関する遠藤の証言は、次のとおりである。
 「最初に思い出すのが、松本の警察にサリンを撒く話が出ていた。このことについては、私は麻原さんが言ったんだと思っていました。ただ、捜査段階で、村井さんが言ったと言っている人もいると聞かされたので、村井さんも言ったのかなと思いました(同3丁)。
 単語としては松本の警察にサリンを撒くという風な単語は出ていたと思います。(同4丁)。
 松本の裁判所にサリンを撒く話も出ていました(その話をしたのは)麻原さんだと思っていました(同4丁)。
 (どうして松本にサリンを撒くのかという点については)松本サリンで再逮捕される前までに二度逮捕され、松本サリンの前までにいろいろなことを捜査官から教えてもらいまして、それで、松本の土地に関する裁判があって、それが近々判決が出るという、負けそうだというふうだった、というのをそのとき聞いた。この事件の当時は全くというか深く考えなかった。その当時から裁判の邪魔をするためにサリンを撤こうとしているとは考えていない。(同4丁)。」
 イ これらの遠藤証言は、遠藤の興味深い心理状態を表している。
 遠藤は、捜査段階で供述する際に、「松本の警察にサリンを撒く話が出ていた。このことについては、私は麻原さんが言ったんだと思っていました。ただ、捜査段階で、村井さんが言ったと言っている人もいると聞かされたので、村井さんも言ったのかなと思いました。」と証言しているのである。
 前記のとおり、「松本の警察にサリンを撒く」というのは、他の共犯者の註言や調書では、村井が述べたことになっているが、遠藤は「被告人が言ったと思っていました」というのである。
 遠藤ら幹部も、「命ずるのは被告人であり、それ以外は村井も含めて命ぜられる立場である。」という先入観にとらわれて、それを前提にした記憶を、後付けで形成しているのである。
 ウ さらに遠藤は、「サリンを撒くと言われてどう思いましたか」と聞かれて、「またか、と思いました。」と答えている(第103回6丁)。
 この証言は重要である。遠藤が「またか」というのは、池田事件の噴霧のことを思い出したというのであるが、遠藤は、「サリンを撒く」と言われて、池田事件のことを連想したというのである。
 さらに、「どういう理由でサリンを撤くんだというような発言はありませんでしたか。」と質問されて「いいえ、私は聞いていません。」と答えている。
 以上によれば、「サリンを撒く。」と言われて遠藤がイメージしたのは池田事件類似の噴霧実験に過ぎず、何の目的で撤くのかが分からなかったというのである。とすれぱ、被告人が「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンを撤いてサリンが実際に効くかどうかやってみろ」と被告人が述べたとの検察官の主張(論告116丁)について、大きな疑問を投げかけるものである。
(8) 中川の検面調書および公判廷証言
 ア 「謀議」についての中川証言
 「謀議場面」に関し、検察官は、中川の検面調書D甲804号証1丁〜5丁を摘示している。そこには、被告人が「松本にサリンを撒く。」「警察が来たら排除したらいいじゃないか」との発言をした旨の供述がある。
 しかし、そもそも中川は、謀議について、何の目的で集まったかについてさえ無関心であった。また、中川の印象では、本件に関連する話をした時間は10分足らずであった。そもそも、このときのイメージは大変薄いはずである。
 中川のこの部分の供述およびこれ沿った証言は、中川が虚偽の証言をしたものというより、遠藤と同じように、起こった結果の重大性から逆に判断して、被告人が指示しなければこのような重大なできごとが起こるはずはないという固定観念から、被告人が最初に発言したとの記憶となって後付けの記憶が形成されたのではないかと考えられる。
 イ 中川の全般的な取調状況及び調書作成過程
 それのみならず、中川の検面調書については、滝本サリン事件で詳細に述べたとおり(第2,6)、その供述内容の任意性、信用性には大きな疑問がある。
 (ア) 取調状況
 その該当部分で指摘したとおり、捜査段階では、母親が選任した弁護人が一人ついていたのみであり、他の弁護士との接見は捜査官によって妨害されていた。しかも、母親が選任した弁護人は岡山在住であることもあって、中川に予想される罪責に照らせば、接見回数・接見時間とも全く不十分であった。そのこともあって、中川は、事件そのものについて弁護人に相談したり、事件について検討することはほとんどできず、接見内容としてもおよそ空疎で中身のないものであった。このように、中川は、弁護人からの助言がない中で、連日連夜の長時間の取調べを強いられ、調書が作成されたのであった。  このような取調べの外形的な事実だけからしても、中川の捜査段階における供述には、任意性・信用性の双方において重大な疑問がある。
 (イ) 陳述書(滝本サリン事件L甲98、松本サリン事件D甲854、假谷事件J甲180、坂本事件G甲175、地下鉄サリン事件A甲12073)の作成経緯についても、該当部分で指摘したとおりである。
 すなわち、その文面を見ても、中川は、「信者や関係者をかばう」目的で陳述書を作成したことは明らかである。「自らの犯罪に対する反省」が動機となったのではないし、このことは中川の公判廷証言からも明らかである。同人は、自分が関与したことについては、反省し、責任を負うべきであると考え、被害者、遺族のことについても考えてはいたが、そのことが供述する態度に結びついていたわけではなく、自分が死ぬこと(死刑になること)が「反省」であると思っていたのであるから(第184回32丁〜33丁、第193回28丁〜29丁)、陳述書作成についても、「自らの犯罪に対する反省」が動機となったものでないことは明らかである。
 また、この陳述書は、全ての事件(滝本サリン事件、松本サリン事件、假谷事件、坂本事件及び地下鉄サリン事件)についての供述の動機とはならない。陳述書で言う「今回のサリンに関する事件」とは、地下鉄サリン事件を意味するのであって、他の事件は含まれない。
 特に、松本サリン事件については、当時取調べで追及されていたわけではなく、さらに、池田事件についても陳述書作成当時は黙秘していたのであるから、本件事件が「今回のサリンに関する事件」に含まれないことも明らかである。
 したがって、陳述書は全ての事件について、何の意味も持たないものであり、陳述書の存在・内容を理由に中川の捜査段階の供述が信用でき、それに反する公判廷の証言が信用できないとすることはできない。
 (ウ) 公判廷証言の信用性について
 この点も、滝本サリン事件において述べたとおりである。
 中川は本法廷及び他の共犯者の法廷でも当初証言を拒否していたが、その後、公判廷で証言することになったのは、要するに、自己の行なった行為について真撃に反省し責任をとりたいと考えていること、それを償うために極刑を覚悟していること、しかし、自分が処刑されても被害者が生き返ることはなく、責任を果たしたとは言えないこと、自分が実際に経験したことを記憶のまま残したいとの
思いがあり、後世の人にも誤解されたくないこと、そのためには事実と異なる内容の調書の間違いを正したいこと等である。
 弁護人らとしては、前記アのとおり、公判廷証言が全面的に信用できるものとは考えていないが、それは、中川が意図的に虚偽の証言をしているというより、記憶が変容しまたは先入観によって、誤った記憶が定着してしまったということによるものと考えられる。
そのような留保をつけて検討すれば、少なくとも捜査段階での供述と比較した場合には、中川の公判廷での誠実な態度からしても、公判廷証言の方が信用できるものである。

3 本件で撒布された物質について
 (1) はじめに
 ア 検察官は、本件において撒布されたものはサリンであると主張する(論告128丁)。  しかし、後に詳述するとおり、現場あるいは被害者から検出されたとするサリンあるいはサリン関連物質の鑑定には疑問の余地がある。
 さらに、仮に1994年(平成6年)2月に中川及び滝澤らによって生成された物質にサリンが含有されていたとしても、それから4ヶ月を経た本件事件時点においてはサリンは全てイソプロピルアルコールによって分解されている可能性が高い(滝本サリン事件、第6,2、(1))。
 なお、以下論ずるに当たって、便宜上本件で撒布された物質を「サリン」と呼ぶこととする。
 イ サリンの毒性について
 すでにサリンプラント事件において述べたとおり、サリンには効力が数千倍も異なる光学異性体が存在し、単にサリンというだけでは、強力な殺傷力をもつものであるか、ほとんど殺傷力のないものであるか不明である。
 また、被害者にサリン中毒症状類似の症状が出ているとしても、それは有機リン中毒の症状であって、有機リン中のサリンであるということまで特定できるものではなく、有機リン以外でもそのような症状が出るものであって、原因物質が有機リン系のものであるということまでも特定できるものではないという問題点もある。
(2) 中川及び滝澤によって生成された物質
 ア 生成の経緯
 本件において撒布された物質は、中川及び滝澤らが平成6年2月の中旬に生成したものである。
 それまで土谷によってサリンの生成方法が研究され、土谷によれば、少量のサリン生成には成功していたとのことである。しかし、平成6年12月末頃から、土谷はサリンの研究ワークから外れてしまったため、この段階でのサリン生成は中川及び滝澤らが土谷の助けをほとんど借りることなく行なったものである。
 滝澤は、それまでにサリンを生成したことはなく、その経歴、教団内での経験などからしても、十分な化学的知識及び技術を持っておらず、土谷の助けを借りなければサリンを生成できるような能力を有していなかった。中川も医者であり、それまで土谷を手伝いサリン生成に関与したことはあったものの、十分な化学的知識及び技術を持っていなかった。
 このような状況のもとで、サリン生成の最終工程の作業が第7サティアン3階にてミニプラントという形で行なわれた。
 イ ブルーのサリンについて
 この最終工程は、メチルホスホン酸ジクロライドとメチルホスホン酸ジフロライド及びイソプロピルアルコールを1:1:2の割合で混合する工程であるが、中川及び滝澤の証言によれば、イソプロピルアルコールを過剰に投与してしまった。
 これは、中川が、イソプロピルアルコール下においてはサリンを保存する、すなわちサリンが長時間分解しづらいとする文献を見たとして、前記分量以上のイソプロピルアルコールを入れたためである。
 このため、本来であれば、20kg程度のサリンが生成されるようにメチルホスホン酸ジクロライド及びメチルホスホン酸ジクロライドの量が調整されていたところ、でき上がった混合液の量は30kgを超える量となった。
 しかも、でき上がった混合液は容器のガラスの成分であるコバルトが溶け出したことにより、青みがかったものになった。
 後に土谷は、この「サリン」を「ブルーサリン」と呼ぶようになったが、以下、便宜上この生成物を「ブルーサリン」と呼ぶこととする。
ウ 多量の不純物を含んでいたこと
 このブルーサリンは、前述したとおりイソプロピルアルコールが過剰に投与されたため、サリンよりもメチルホスホン酸ジイソプロピルの方が大量に生成されることになった。
 この点について、土谷は次のように証言している(土谷尋問速記録第248回114丁〜119丁)。
 すなわち、土谷は、中国旅行のためのパスポートの手続を済ませクシティガルバ棟に戻ってきたときに、中川らの作業を手伝っていた寺嶋敬司が合成した物質のサンプルを持ってきたので、それをGC/MSによって分析した。その結果、サリンとメチルホスホン酸ジイソプロピルが検出された。定量分析は行なっていないが、卜一タルイオンクロマトグラムにおいて、サリンよりもメチルホスホン酸ジイソプロピルの方が多く含まれていた。質量電荷比81のイオンクロマトグラムでは、サリンのピークの7割くらいの高さのメチルホスホン酸ジイソプロピルが表示されていたが、この質量電荷比81というのは、サリンの代表的なピークの1つであるのに対して、メチルホスホン酸ジイソプロピルでは雑音と間違えるほど何もでないものであり、それがサリンのピークの7割も出たということは、メチルホスホン酸ジイソプロピルがサリンに比べて遥かに大量に含まれていることを意味する。
 そのほか、トータルイオンクロマトグラムにおいてサリンよりもリテンションタイムが早く出てきたピークが1つあり、これにつきライブライーサーチをしたところ、ケイ酸化合物が複数ヒットした。
 このように土谷証言によるとしても、このブルーサリン合成直後の状態において、サリンよりもメチルホスホン酸ジイソプロピルの方が遙かに多かったものである。
エ 分解の可能性について
 平成6年2月にブルーサリンを生成した段階において仮に一部サリンが生成されていたとしても、その後そのサリンはイソプロピルアルコールと反応して分解し、松本サリン事件が起きた同年6月末の時点では全て分解していた可能性が高い。
 なお、中川は、前述のとおりブルーサリン生成前に、サリンがイソプロピルアルコール下において保存されるとする論文を読んだとし、その内容を示す文献として、D甲572添付の論文を指摘する。ただ、中川が読んだという論文はロシア人が書いた英語の論文であり、D甲572添付の文献自体ではない。
 しかし、サリンがイソプロピルアルコール下において保存されるという結論自体は誤りである。
 この点につき、土谷は、次のとおり証言する(土谷尋問速記録第239回39丁〜41丁、同速記録第249回)。
 すなわち、サリンにイソプロピルアルコールを加えればメチルホスホン酸ジイソプロピルが生成されることは化学的・理論的にも常識である。土谷自身、平成5年8月に、第1サティアン4階で、サリンにイソプロピルアルコールを加えて全部メチルホスホン酸ジイソプロピルに変えている。また、土谷が読んだ文献の中には、サリンがイソプロピルアルコール下において分解していく速度に関して、100時間未満でゼロになったという実験結果が掲載された文献があった(同速記録第239回添付別紙4参照)。
 また、土谷は、D甲572添付の文献を読んだことはあるが、前記内容はすぐに間違いであると思った。同文献に記載されているメチルホスホン酸ジフロライドの合成方法については、直ちには間違いであるとは分からず、ここに記載された方法を3回試してみたが、メチルホスホン酸ジフロライドは全くできなかったということであり、この論文自体の信用性は極めて低いものである。
 現実に、本件においても、当初生成されたブルーサリンにメチルホスホン酸ジイソプロピルが含有されていること自体は検察官も認めているところであり、これはサリンがイソプロピルアルコール下においてメチルホスホン酸ジイソプロピルに変わりうることを強く示すものである。
 弁74(月刊「化学」50巻8号)の468頁によれば、「光学活性なサリンは濃縮すると室温で約20時間でラセミ化するが、アセトン、イソプロピルアルコール、酢酸メチルなどの有機溶媒中で0.11〜0.14Mの濃度だと、数週間は光学活性度に変化がない。しかし、フッ化物イオンが共存するとラセミ化の速度は著しく促進され、例えば8.2×10-2Mのサリンのイソプロピルアルコール溶液は、pH4.5で5.1×10・4Mのアンモニウムフルオリドが共存すると、半減期は15分になってしまう」とされる。
 この文献によるとしても、サリンのイソプロピルアルコール下での保存期間はせいぜい数週間であり、本件のように4ヶ月経過すればサリンが分解することを否定するものではない。しかも、中川の証言では、ブルーサリンには四フッ化ケイ素のイオンが含まれていたとのことであり、このようなフっ化物イオンがあれば、分解遠度は著しく速まるとされており、本件においてブルーサリンが分解されていたことは容易に推測される。
(3) 角田証言による質量分析の判断基準
 ア 角田証言
 科警研の角田証人は、質量分析の判断基準について、次のように証言した。
 (ア) 保持時間について
 保持時間の誤差として許容されるのは、大きい方の数値では保持時間でプラスマイナス5スキャン程度である(第163回40丁裏)。
 (イ) 質量スペクトルの比較について
 ガスマスの質量スペクトルについての標品との比較についても、ピークの強さに違いがある場合は、必ずしも両者が一致しているとは言えない、と述べる(第155回8丁裏)。
 つまり、ガスクロマトグラフ質量分析においては、保持時間と質量スペクトルの両者がいずれも一致しなければ同一とは判断しないというのである。
 イ さらに、角田証人は、マススペクトルの解析について、次のように述べる。化学構造のパーツの組合せがどうなっているかということが同定になる。フラグメントイオンが同じ場合パーツは同じである。ただ、パーツの組合せが違う可能性がこれでは否定できない。パーツが幾つかあっていわゆるパズルのようにそれが一つになるが、そのときの位置が違う可能性を否定できない(第163回42丁裏)。
 すなわち、類似したピークが出ているとしても、完全に一致していなければパーツの組合せが違う可能性を否定できず、両者は同一物質であるとは言えないというのである。
 ウ 本件においても、多くの鑑定資料につき鑑定を行なってきた角田証人のこのような基準(以下「角田基準」という。)は、その所属する科警研の鑑定においても当然満たされていなけれぱならない。
 以下の個別の検討に際しては、この基準に照らした検討も併せて行なう。
(4) 長野県警科学捜査研究所研究員小林寛也作成の鑑定書
 ア 鑑定書の内容の信用性について
 本件現場から採取された土や水について、長野県警科学捜査研究所において鑑定がなされ、サリンあるいはその関連物質が検出されたとされる。
 その鑑定書がD甲540(鶴見所有の駐車場の土砂)、同544(鶴見および河野澄子方池の水)、同566(明治生命寮302号室洗面器の水)として提出され、鑑定をした小林寛也が証人として出廷しているが、その手続及び鑑定結果には重大な疑問があり、到底信用できるものではない。
 イ 中立性の欠如
 D甲539、同543、同565は、それぞれ本件鑑定書D甲540、同544、同566に対応する「鑑定嘱託書」であるが、その「鑑定事項」欄には、「1毒劇物が含有するか。2含有すればその種類、名称はなにか。」と記載されている。
証人小林寛也は、反対尋問で「揮発性の高い毒物であろう」との推測はつけて分析にあたり、この事件の原因物質がガス状のものではないかとの理由で、シアンはひとつの可能性であると考えた旨述べている(第88回公判速記録8丁以下)。また、小林証人がD甲838(瀬島民子の鑑定書)につき、「シアン等揮発性毒物」との記載をしていることからもこのことは明らかである。
 ところが、他方において、小林証人は、その採用した方法では可能性として想定されるシアンの検出は難しい、と証言している(同9丁以下)。
 鑑定資料から毒劇物としてシアンが検出されるかどうかは、事件自体の様相を一変させる可静性のある重要な事実であり、鑑定事項にも格別の限定はないのであるから、分析にあたった鑑定人としては、虚心に、含有される毒劇物の分析にあたるぺきであるし、ましてや予測され得る特定のものがあるのであれば、その含有の有無を調べ、可能性を除外できるのかどうかを調査するのが化学的分析の基本である。
 そうであるにもかかわらず、これをなさなかったのは、テレビ等のニュース報道で聞いたことを前提に分析前のあたりをつけ、鑑定事項である「毒劇物」から特定のものを悉意的に除外し、偏頗な姿勢で分析に臨んでいるものであると言わざるを得ない。
 ウ GC/MSの間題
 本件鑑定書は、GC/MS法による分析のみを行なっているが、GC/MS分析だけでは物質の同定として不十分であることは、滝本サリン事件に関して述べたとおりである。
 また、GC/MS法は、質量スペクトルと物質に特有な保持時間の2つで物資の特定を行なうものであるところ、保持時間の物質における特有性について、小林証人自身も「似た保持時間を示すものはあると思います」と述べている(同16丁以下)。  GC/MS法には、一般的には複雑な構造を持った化学物質を今回のようにマススペクトルとリテンショシインデックスだけで同定することは不可能なのである。
エ 鑑定方法の悉意性
 (ア) 質量スペクトル分析
 質量スペクトルの分析においては、ある物質のピークと、それぞれのピークの強度比が重要となる。
 a したがって、まず、いかなるピークに着目するかについて恣意的な取捨選択が行なわれては、資料の分析として不十分であることは明らかである。本来鑑定は、虚心にピークの山を分析し、その質量スペクトルを分析して、鑑定事項の「毒劇物」の判断をなすべきものである。
 ところが、実際には、いかなるピークに着目するかは、肉眼における判断に過ぎない。本件鑑定書においても、小林証人が「特異なピークである」と判断できなかったピークについては実際には分析がなされていないのが真実である。
 そのことは・小林証人が、主尋問において、血液の鑑定につき、「科警研の鑑定では出た物質(メチルホスホン酸ジイソプロピル)をなぜ証人は分析できなかったか」につき、「私の場合は、(6月)29日の午前中ですから、サリンというようなことは全然考えていませんでした。それで私が用いた装置でEI法によってメチルホスホン酸ジイソプロピルのピークが検出されていたとしても見落とした可能性がある」と述べている(小林寛也尋問速記録第80回16丁以下)ことからも明らかである。

 小林証人は、反対尋問において、「ピーク1以外のピークについても、質量スペクトルを取って毒物であるかないかというのはデータベースでチェックしたか」との質間について、「そうです」と述べているが(同21丁以下)、実際には、主尋問から明らかなとおり、「サリン」というような「あたり」をつけてピークを取捨選択し分析にかけているのが真実なのであり、ピーク全てにつき分析を行なったということは時間的にもあり得ないはずである。小林証人の証言は信用できない。  とすれぱ、小林証人が「あたり」をつけた段階で証人の頭の中から除外された毒劇物は、容易に分析の対象から排除されることになるのである。このような分析方法が客観性を欠くものであることは明らかである。
 b 次に、もうひとつの指標である「強度比」についても問題がある。
 強度比は、質量スペクトルとあいまって物質の同定をする重要な指標であり、ニストのデータベースと比較したと言いながら、鑑定書にはその重要な数値は記載されておらず、その数値も記憶がないというのである(同25丁以下)。鑑定の経過、正確性の担保の点で極めて重要な2つの指標のうちの1つが、鑑定書に記載がなく、かつ、記憶もないというのでは、鑑定経過を正確に記載した書面として到底不十分なものであるといわざるを得ない。
 (イ) 分析対象の選択
 さらに、小林証人は、トータルイオンクロマトグラムの質量50以下については分析の対象としていない(同52丁以下)。  しかし、実際には43以下にピークがあり、しかも証人はそのことをわかっていたにもかかわらず分析の対象より当初から除外しているのである。43のピークがなんであったのか、もはや知るよしもないのである。
 問題とされるべきは、このような証人の鑑定人としての客観性を欠いた窓意的な姿勢であり、それは、本件鑑定書全体の正確性を損なうものである。
 (ウ) データ集との比較
 小林証人は、検出されたピーク1についてライブラリーリサーチの検索をし、「サリンが高い確率で推定された」と主尋問で述べているが、その確率とは「5割、6割程度ではないが、多分8割前後の値であった」というのである(同21丁以下)。  周知のとおり、化学物質は新しく作り出されるものを含めると、無数に存在しているとさえ言える。そのなかで「8割前後」というとき、可能性として考えられる他の2割の化合物の数は極めて多数に上るのである。
 それにもかかわらず「高い確率で推定された」というのであれぱ、そもそもライブラリーリサーチの精度そのものさえ疑わしいと言わざるを得ない。
(5) 角田紀子作成の鑑定書(D甲698)
 ア 同鑑定書の内容の信用性についての疑問
 第6サティアン敷地内で差し押さえられた加熱容器3個の付着物につき、警視庁科学捜査研究所研究員角田紀子作成の鑑定書(D甲698)が提出されている。この鑑定書についても、鑑定の対象物の捜索・差押手続に令状主義に反する重大な違法があり、証拠能力を認めるべきでないことはすでに述べたとおりであるが、仮に証拠能力が認められたとしても、以下のとおりその内容には重大な疑問があり、信用できるものではない。
 イ GC/MSの問題性
 (ア) 本件鑑定では、GC/MS法による分析のみを行なっているが、GC/MS分析だけでは物質の同定として不十分であることは、すでに滝本サリン事件において述べたとおりである。
 (イ) 鑑定方法の恣意性
 a 質量スペクトルの分析においては、ある物質のピークと、それぞれのピークの強度比が重要となる。
 したがって、まず、いかなるピークに着目するかについて恣意的な取捨選択が行なわれては、資料の分析として不充分であることは明らかである。本来鑑定は、虚心にピークの山を分析し、その質量スペクトルを分析して、鑑定事項の「毒劇物」の判断をなすべきものである。
 ところが、実際には、いかなるピークに着目するかは、肉眼における判断に過ぎない。本件鑑定書においても、証人が「特異なピークである」と判断できなかったピークについては実際には分析がなされていないのが真実である。
 角田証人は、反対尋問において、「(図2の(a)につき)特異なピークは認められるのか。」との質間に対して「認められません。」とし、「それぞれのピークを解析した結果、特異なピークというふうには、判断できないということです。」とし、他方「ピークの部分の解析は、全てしている。」と答えている。
 そして同証人は、続いて「ピークは肉眼で特定するのか、機械で特定するのか。」との質問に対しては、「機械で判断することは条件を設定すれば可能ですが、それは非常にラフな設定ですので肉眼的にするのが1番正確です。」と答えている。
 しかし、そうであるとすれば、「肉眼で認められない」としたピークについてはその存在を特定できないことになる。それでは、肉眼で認められない図2(a)のピークをどうして特定できたのかという疑問が生ずる。また、多数の山が出ている図5(a)については、本当に「全ての」ピークを解析できたかどう一かは、肉眼次第ということであるから、正確性において心もとない結果とならざるを得ない。
 実際には、尋問経過から明らかなとおり、「サリン」というような「あたり」をつけてピークを取捨選択し分析にかけているのが真実なのであり、ピーク全てにつき分析を行ったということは時間的にもあり得ないはずである。証人の証言は信用できない。
 とすれば、証人が「あたり」をつけた段階で証人の頭の中から除外された毒劇物は容易に分析の対象から排除されることになるのである。
 このような分析方法が客観性を欠くものであることは明らかである。
 b 次に、もうひとつの指標である「強度比」についても間題がある。
 強度比は、質量スペクトルとあいまって物質の同定をする重要な指標であり、鑑定書にはその重要なはずの数値は記載されていない。鑑定の経過、正確性の担保の点で極めて重要な2つの指標のうちの1つが鑑定書に記載がないのでは、鑑定経過を正確に記載した書面として到底不十分なものであるといわざるを得ない。
(6) 検察官の主張について
 ア 鑑定相互の関係
 検察官は、これらの鑑定人の鑑定相互について「異なる研究所の異なる鐙定人が、本件の手段方法が全く判明していない時期に、それぞれの現場資料から、サリン、モノイソプロピル及びメチルホスホン酸並びにジイソを検出していることは相互に鑑定の正確性、信用性を補強しあっている」と主張する(論告129丁)。
 しかし、以上の検討を前提とすれば、検察官のこの主張は全く理由がない。
 イ 各鑑定の中立性・客観性の欠如
 (ア) 長野県警の小林証人は、科警研の鑑定では検出されたメチルホスホン酸ジイソプロピルを同人が検出できなかった理由につき、「私の場合は、(6月)29日の午前中ですから、サリンというようなことは全然考えていませんでした。それで私が用いた装置でEI法によってメチルホスホン酸ジイソプロピルのピークが検出されていたとしても見落とした可能性がある。」と述べた(上記3、(3)、イ)。
 この証言によれば、科警研の鑑定(瀬戸鑑定、角田鑑定)は、小林鑑定の鑑定を踏まえて、鑑定を行なっていることは明らかである。
 (イ) また、角田証人の尋問経過によれば、同人は加熱容器3個の鑑定の際、分析すべきピークの選択において、明らかに「サリン」というあたりをつけて取捨選択している(上記3、(4)、イ)。
 この証言からも、科警研の鑑定(角田鑑定)が、小林鑑定の結論を踏まえて鑑定をしていることは明らかである。
 (ウ) このように、長野県警科捜研と科警研の鑑定は、異なる研究所の異なる鑑定人ではあっても、密接に連絡を取り合って本件事件の関連資料の鑑定に当たっており、科警研の鑑定はそれに先だって行なわれた小林鑑定の結論を踏まえて行なっているから、これに沿った結論が出るのは当然である。
 相互に正確性、信用性を補強し合っているとの検察官の主張は、全く理由がないことは明らかである。

4 サリンとの因果関係について
 (1) はじめに
 本件では、死亡した被害者らの血液につき、警察庁科学警察研究所(科警研)においてコリンエステラーゼ活性値、毒物検査がなされ、また、さらに、死亡した伊藤友視、瀬晶民子及び榎田哲二については、医師福島弘文によって死体解剖がなされ鑑定書が提出されている。
 これらの鑑定書の内容には重大な疑問があることは以下に述べるとおりであるが、死亡した阿部裕太、安元三井、室岡憲二及び小林豊については、死体解剖すらなされていない。これらの者につき、死体解剖を行なっていないこと自体、本件における捜査が、一定の思い込みの下になされたことを如実に物語るものであるが、これらの者がほぼ同時期に死亡し、死体解剖を行なった伜の死亡者と類似の外見的所見が見られるとしても、実際に解剖をしてみなければ、その死因は確定できるものではない。たまたま、同人が急性の重大な疾患を原因として、または、それとの合併のために死亡したのかも分からないのである。同人らが果たして本件毒物を吸引して死亡したと言えるかについては、この点だけをとっても証拠が不十分である。
 (2) 瀬戸康雄ら作成の各鑑定書
 ア D甲823、同825、同830の各鑑定書の信用性について
 本件においては、警察庁科学警察研究所研究員瀬戸康雄らによって、被害者の心臓血についてアセチルコリンエステラーゼ活性値の検査及び毒物検査、被害者の現場資料作成のD甲823、同825、同830の各鑑定書は、鑑定資料収集あるいは鑑定嘱託の手続に重大な違法があり、違法収集証拠として証拠能力を認めるべきではないことはすでに述べたとおりであるが、仮に証拠能力が認められたとしても、以下のとおり、その内容には重大な疑問があり、到底信用できるものではない。
イ 血液のコリンエステラーゼ活性値
 (ア) 本件においては、警視庁科学警察研究所において、被害者の心臓血について、アセチルコリンエステラーゼ活性の検査がなされている。しかし、その内容には以下のとおり重大な疑問がある。
 なお、地下鉄サリン事件においても、科警研における鑑定が本件と同様に行なわれており、本法廷においては、地下鉄サリン事件の審理が先に行なわれたため、鑑定に携わった瀬戸康雄の証人尋問としては、地下鉄サリン事件についてのものが先になされている。瀬戸証人によれば、地下鉄サリン事件における検査は、本件松本サリン事件における検査方法を踏襲したものであるとのことであり、両事件に共通した間題であるため、ここでは、地下鉄サリン事件における証言内容をも引用することとなる。
 (イ) DTNB法
 瀬戸証人は、本件鑑定において、コリンエステラーゼの酵素活性値の測定方法としていわゆるDTNB法を採用しているものであるが、具体的にどのような方法によって検査をしたのかについての情報が本件鑑定書に記載されていないため、検査結果の正確性を判断することができない。
 すなわち、酵素活性の測定方法につき、「証人の鑑定書で活性値としての0.15という値は出てくるんだけれども、この式で書いてある吸光度が分からないと、証人がここで書いている0,15という数字は導けないわけですね」との弁護人の質間に対して、「はい」と回答し、さらに、「この鑑定書の中に、証人が測定した吸光度は全く記載されてませんね」との質問に対して「はい」と回答している(瀬戸尋問速記録(第24回102丁以下))。
 そして、「そうするとこの鑑定書を第三者が見ても証人がどうやってこの活性値を導いたか判断できないのではないか」、「一体どうやって、証人の鑑定が正確在のか判断できるのか。」との質問に対して、「この鑑定の趣旨というのは、私の測定した酵素活性の妥当性を示しているものではありません。酵素活性が、実際に中毒を起こした人がどの程度の数値を示すかというのを示しているのでありまして…・」と述べ、さらに「結果を書いておりますので前の生データを書く必要はないと思っている」と述べている。
 このやり取りから明確に読み取れるのは、本件鑑定書においては、いわゆるDTNB法が正確に行なわれたのか、どのような経過で具体的な数値が導かれたのか、ということを検討する必須の情報が鑑定書上欠落しているという事実である。
 瀬戸証人自身、「この鑑定の趣旨というのは、私の測定した酵素活性の妥当性を示しているものではありません。」と証言している。この証言は、「本件鑑定書に記載されている鑑定が正確な観察によるものかどうか」については本件鑑定書の記載によっては担保されるものではなく、要するに「私(瀬戸証人)の検査の結果はこうでした。」と記載したものに過ぎないということを意味する。
 本件鑑定書が、専門家による鑑定としての客観性と正確性の担保を欠くことは明らかである。
(ウ) 正常人血液の数値
 a 正常人の血液か否か
 瀬戸証人は、正常人血液について、「正常であるかどうかは、どうやってわかるか」との弁護人の質間に対し、「輸血用ですから正常人というか健康人を対象に採血しますので、…正常人だと考えました」、「古くなると血液は使えないので2週間以内だと思っている。警察病院では確認はしていない。一般常識として知っていた。」旨を証言した(瀬戸尋問速記録(第24回67丁以下))。
 要するに、瀬戸証人は、測定条件を厳密に調整したと言っているが、そもそも比較の対象となる「正常人の血液」なるものが本当にそうであるのかということは担保されていない。
 また、そもそも比較の対象である正常人の血液について、測定方法、コリンエステラーゼの測定条件は何ら示されていないのである。
 b 8検体で足りるか
 瀬戸証人は、正常人の血液につき、「8検体の数が問題で信頼性にかけるのではないかというご質間だと思いますが、これは、私が限られた条件で正常値を出すという条件では8検体がその当時は限界だった、…じゃ8検体だけでなくて何検体必要かというと統計学的には非常に難しいところであり、…8検体もとれば統計学的にはかなり(正常値に)近づくという意味で最低8検体をとってやりました」と述べている(同73丁)。
 また、8検体とした理由についても、その根拠は、「限られた数しかその当時はできなかったということと、いろいろ文献を読んでみますと比較的少ない場合にも平均値を出して議論してるものも見うけられましたので、8検体とした」に過ぎない(同105丁)。
 このように、証人は8検体が平均値に近いという根拠を実際には文献で垣間見た程度であり、統計上の論拠は示すことができていない。
 ちなみに、吉本大介の治療をした信州大学付属病院の森田洋医師は、同病院のコリンエステラーゼ値の正常値につき、「器械を新しくして、その測定方法を決めた時点で、正常値というのは約二千名以上の検体を集めまして、その測定値を元に正常値を決定したと聞いております」と証言している(森田洋尋問速記録(第101回19丁表))。
 なお、瀬戸証人は、地下鉄サリン事件における証言後に、25ないし30の輸血用保存血を測定し、正常値の値を確認したと証言する(瀬戸尋問速記録(第93回62丁以下))。この事実は、まさに同証人が8検体では、正常値として検討するに不十分であると考えた証左である。
 c 平均値と標準偏差
 瀬戸証人は、「私たち化学をやるものが統計的に高い、低い、低いというのは平均と比べて、正常の人と比べて低い高いを云々する場合には、平均値と標準偏差の値で判断しております」と述べた(瀬戸尋問速記録(第24回105丁))。
(エ) 鑑定資料と正常人血液とのコリンエステラーゼ活性値の比較方法
 a 標準偏差の概念について(弁81,48丁以下)
 (a) 統計学上、個々のデータが異なっている程度を示す方法はいくつかあるが、その一つに標準偏差がある。
 各データから平均値を引いた値を偏差といい、偏差の平方を加えてデータの個数で割ったものを分散という。標準偏差とは、分散の平方根として求められ、シグマで表される(弁81,48丁〜49丁)。
 (b) 正規分布の場合、分布図の重心からプラスマイナス1シグマの範囲内に全データの68・3%が、プラスマイナス2シグマの範囲内に全データの95・5%が、プラスマイナス3シグマの範囲内に全データの99・7.%が含まれる(同55丁〜56丁)。  したがって、データの最大値と最小値は、プラスマイナス3シグマ内にほぼ収まることになり、2シグマの範囲外となると異常値と判断されるべきことになる。
 b 瀬戸証人の鑑定の基本姿勢
 地下鉄サリン事件でも述べるとおり、瀬戸証人は、鑑定資料と正常人の血液とのコリンエステラーゼ活性値比較方法について、「鑑定書に書いた評価というのは、平均値から標準偏差を加味してそれよりも低い値であれば統計的に平均値より低いということで判断して書いている」と明確に述べている(同108丁)。
 ところが、地下鉄サリン事件におけるA甲12000について、鑑定結果につき、鑑定資料のコリンエステラーゼ活性値が、「若干低い値であった」という記載となっている理由を質問された瀬戸証人は、「正常人8人に関して得られました8検体の平均値から標準偏差として得られた値、シグマを引いた値よりも低ければ、統計的に低いと判断して低かったと記載しております」と明確に述べながら、「平均値引く1シグマよりも高ければあえて書かないんですが、この場合は、平均値引く1シグマよりも少し高かったかもしれませんが、かなり低い、その値に近かったので、まあ、若干という言葉を加味して書いております。」と述べている(同109丁)。
この証言は、客観的な正確性のもとにおいて鑑定をなすべき鑑定人の証言としては実に驚くべき証言といわざるを得ない。瀬戸証人は、随所で、統計的に厳密な判断のもとに正常人との比較対象を行なったかのように述べながら、肝心の結論にかかわる、「平均値引く1シグマと鑑定資料の示した数値のどちらが高いか」という間違いようのない一義的な判断をする際に、突然、統計学上も何の根拠もない「若干」という概念を持ちだして、本来であれば「統計的に平均値より低くない」としか記載しようのない結論部分を、「若干」という根拠のない文言をつけることで「低い」という結論を強引に記載したのである。
一見、統計学に基づき厳密かつ客観的に判断しているかのように見せながら、最後の最後の一義的な結論の段階になって、極めて姑息な手段により強引に「低い」としたのが鑑定書の記載であり、証人がいかに厳密性を強調しようとも、覆い隠せない恣意性が明瞭に示されており、また、瀬戸証人の証言の欺聴性が明白に現れたものというべきである。
 c さらに、瀬戸証人は、正常人の血液の平均値引く1シグマの値と鑑定資料とを比較したと証言しているが(同109丁)、もしそうであれば、片側検定の場合は、全データの17%が外れるのであり(同110丁)、約5人に1人が統計上は外れる計算である。
 しかし、一方でA甲12000の被害者は死亡しているのである。しかるに、その人のコリンエステラーゼ値は目本人の5人に1人の範囲内に含まれている数値だというのが、瀬戸証人の結論なのである。
 そこで、今度は逆にA甲11950を示して質間すると、瀬戸証人は、「0.15というのは、平均値から確か2シグマより低い値だと恩います」と一転して述べ、「2シグマ離れた数値はいくらか」という質問には「具体的には覚えていません」といいつつ、「測定法は別としまして、平均値の値から例えば半分以下とか20%以下になれぱ中毒になるとかいう文献は知られています。その時のぺ一パーの評価としては決して統計的に2シグマ以下とはいつておりませんので、平均値に比べてこれ1割以下という……10分の1以下程度になりますと、それは測定法によらずに中毒に陥っているというのがもうあからさまに分かりますので…コリンエステラーゼ中毒を研究している人が見れば明らかにこれは何かの曝露の結果だと積極的に言えると思います」と述べている(同115丁)。
 ここに至ると、もはや瀬戸証人は、「専門家が見れぱ経験的に分かると思いますよ」、と言っているに過ぎず、そこには、客観的に本鑑定書のコリンエステラーゼ活性値の比較が、証人自身の言う「化学者であれば然行なうべき判断」としての統計的な判断とは到底言えないことを明白に示している。
 d このような瀬戸証人の証言は、瀬戸証人の本件鑑定書の作成が、訴追側に都合のよい結論を先取りして「はじめに結論あり」で記載された、訴追側に偏頗した立場から記載されていることを強く疑わしめるものであり、公平性・中立性の点から見て重大な問題を含んでいる。
 本件鑑定書は、その信用性を担保しうる客観的情況保障が破られているといわざるを得ない。
 e コリンエステラーゼ活性値の測定誤差について
 本件鑑定におけるコリンエステラーゼ活性値は、どこまでが有効数値なのか、不明である。信州大学医学部教授福島弘文証人は、松本サリン事件において科警研の行なったコリンエステラーゼ活性の測定値について、まず右心室と左心室、全血を分けて調査する意味はないと証言する。また、分光光度計の精度を考えれば、コリンエステラーゼ測定値の誤差の範囲は大きく、小数第2位どころか小数第1位の数値もあまり意味がないと証言する(福島弘文尋問速記録第96回77丁以下)。
 実際の測定結果を見ても、動脈血と静脈血が混じった全血の数値は、動脈血のみと考えられる左心室の血液の数値と、静脈血のみと考えられる右心室の血液の数値との中間値となっていない。この点のみをもってしても、本件鑑定における測定結果の有効数値がどこまでかは厳密に吟味する必要がある。
 本鑑定書の内容は、測定誤差が明記されておらず、これを見る者に誤った判断を与える可能性がある。
ウ 血液の毒物検査
 (ア) 毒物検査の手法について、ガスクロマトグラフイー質量分析計(以下「ガスマス」という。)によるEI法(熱電子衝撃法)とCI法(化学イオン化法)のみでは、物質の検出方法として不十分であることは、滝本サリン事件において述べたとおりである。
 本件鑑定においては、4重極型ガスマス、イオントラップディテクター型ガスマス、タンデム質量分析(ガスマス)、バージ・トラップーパルスヒーテイングーガスマスなどの多種のガスマスの機械を用いているが、いくら多くの機械で目的の物質が検出されたからといって、原理的には同じであって、同定の精度が上がるというわけではない。
 (イ) D甲823の血液の毒物検査
 a 本資料は、榎田哲二の血液を調整して得たジクロロメタン可溶部であるが、これをCI法によるガスマスに掛けると保持時間752秒に、本鑑定書添付の図2のスペクトルが得られたとされる。鑑定書では、これと別途合成したメチルホスホン酸ジイソプロピル(DIMP)のCI一質量スペクトル(添付図3の中段)と比較し、「標品DIMPのGC/CI-MSにおいては、保持時間752秒にDIMPの擬分子イオンピークm/z181及び特徴的なフラグメントピークm/z139等が観測された。鑑定資料の保持時間752秒のピークと標品DIMPのGC/MSの挙動は一致した」とし、結論として、鑑定資料は、メチノレホスホン酸ジイソプロピルを含有するとする。
 しかし、本鑑定書の図2と図3中段のスペクトルを比較すると、図2では、m/z129,m/z181,m/z113のピークが認められるのに対し、図3中段図では、m/z181が強く、その他m/z139、m/z97のピークが認められる。これらを比較して、両者が同一であるとか類似しているということは到底言えるものではない。
 この点につき、瀬戸証人は、「両スペクトルが一致しているということは言えないが、他の鑑定書や本鑑定書において血液からメチルホスホン酸ジイソプロピルが検出されている現場からもかなり検出されている。ところが本資料は生体資料由来の妨害画分が妨害しているために、それがかぶってきている。したがって、メチルホスホン酸ジイソプロピルのピークのパターンが含まれていれば、完全には含有の確認には至らないが、検出されたと判断した」旨証言している(瀬戸尋問速記録第93回70丁)。
 これは科警研の鑑定姿勢そのものに関連する極めて重要な証言である。科学的な鑑定においては、他の資料にどのような物質が検出されたかは関係なく、本資料に何が検出できるかを、客観的に検査すべきであるのは当然である。そこに予断を持っては、正確な鑑定ができないことは明らかである。
 さらに、本資料については、EI法によるスペクトルが得られず、標品のEI―スペクトルとの比較をなすことなく、先のような不十分なCIスペクトルの比較のみで、本資料にメチルホスホン酸ジイソプロピルが含有されているものと結論づけているのである。
 すでに述べているとおり、物質の同定を行なうためには、EI法は不可欠で、CI法はそれを補完する程度のものに過ぎない。弁護人はEI法でも不十分であると主張しているのであるが、そのEI一スペクトルの一致が確認できないにもかかわらず、本鑑定では物質の同定を行なっているのである。
 瀬戸証人は、この点について「GC/MSを使った場合には、リテンショシインデックスと、EIマススペクトル、CIマススペクトルが同一ということでいっているのが通常の方法だが、この鑑定においては、含有は支持されて、ただ含有量は非常に少ない、そういう状況で判断するときに、完全な証明には至らないが、検出ということを支持することは、スペクトル的には可能であり、この資料中にメチルホスホン酸ジイソプロピルの含有が完全に確認された、証明されたという意味ではない」旨を述べ、「それでは『含有する』との結論は訂正するのか」との弁護人の尋問に対しては、訂正はせず、「鑑定結果の方に含有すると書いているが、鑑定の経過の方には、ジクロロメタン可溶部の緒果を詳細に書いている」旨を答えている(同第93回75丁以下)。
 ここに至っては、本鑑定は、特定の結論を導き出すために鑑定を行なったとしか言いようのないものとなっている。本資料に特定の物質が含有されているか否かは、有るか無いかの問題であって、量の問題ではない。微量のため同定ができないのであれぱ、その物質が含有されているとは言えないのであって、本鑑定の結論は誤りであることは明らかである。
 b 角田基準による検討
 (a) 本鑑定書の図2と図3中段のスペクトルを比較すると、図2では、m/z129、o/z181、o/z113のピークが認められるのに対し、図3中段図では、o/z181が強く、その他m/z139,m/z97のピークが認められる。
 角田基準によれば、ガスマスの質量スペクトルについての標品との比較について、ピークの強さに違いがある場合は必ずしも両者が一致しているとは言えない、というのであり、また、ガスクロマトグラフ質量分析においては、保持時間と質量スペクトルの両者がいずれも一致しなければ同一とは判断しないというのであるから、これらのピークを比較して、両者が同一であるとか類似しているということは到底言えないという結論になる。
 (b) さらに、本資料については、EI法によるスペクトル得られていない。
 角田基準によれぱ、マススペクトルの解析について、化学構造のパーツの組合せがどうなっているかということが物質の同定になるというのであるが、本件鑑定では、そもそもEI一スペクトルを得ることが出来なかったというのであるから、鑑定資料の同定は出来ないという以外の結論はあり得ないのである。
(ウ) その他の血液の毒物検査
 D甲825の鑑定書においては、資料8,9,11,12,14,15が血液資料である。本鑑定では、これらの資料のいずれからもメチルホスホン酸モノイソプロピル及びメチルホスホン酸が検出されたものとされている。
 しかし、本鑑定書には、メチルホスホン酸モノイソプロピルが顕著に検出されたという資料9のGC/MSスペクトルしか添付されていない(図15,16)。これは極めて恣意的であり、ここに添付されていない資料については、顕著に検出されないことは鑑定書の記載自体からも明らかであるところ、果たして右物質が「検出された」と言えるか疑問ある。
(エ) これらの血液資料については、メチルホスホン酸モノイソプロピル及びメチルホスホン酸の外にメチルホスホン酸ジイソプロピルが検出されている遺体もあるが、資料11(安元三井)及び12(小林豊)については、メチルホスホン酸ジイソプロピルが検出されていない。また、D甲823の榎田哲二の血液鑑定においては、メチルホスホン酸ジイソプロピルは検出されているが、メチルホスホン酸モノイソプロピルは検出されていない。
 この事実は、本件被害者らが、本件において噴霧された同じ成分の気体を吸引したことと矛盾する。殊にメチルホスホン酸ジイソプロピルは、かなりの量が含有され、しかも同物質は分解しづらいものとされており、同物質が検出されないということは、他の原因で死亡したという可能性も否定できない。
エ 水抽出物における毒物検査
 (ア) D甲830鑑定資料は、河野方の池の水を長野県警科捜研において有機溶媒で抽出した「抽出物」である。
 この資料については、長野県警科捜研においていち早くサリンが検出されたものとされ、直ちに科警研に同資料につき鑑定嘱託されたものである。そして、科警研では、同所にあるGC/MS機器等を駆使して、鑑定を行なっているが、多数の機器を用いたからと言って、同定の精度が高まるということはない。
 (イ) 本鑑定において、資料からサリン及ぴメチルホスホン酸ジイソプロピルが検出されたとされている。
 瀬戸証人は、サリンと同定できる根拠として、主尋問において次の4点を挙げる。
 第1に、保持指標が文献値に一致していること、第2に、GC/MS、特にEI法の質量スペクトルでサリンのスペクトル同様のフラグメンテーションパターンを示すスペクトルが得られたこと、第3に、正イオン、負イオンのCI法で、サリンの分子量である140を非常に強く示唆するピークが得られたこと、第4に、原子発光検出器や窒素リン検出器付きガスクロ分析で、同じピークのものがリンを含むことが支持されたことを挙げ、これらを総合してサリンと同定した旨証言する。
 しかし、第1の点については、本鑑定書に引用され下いる文献値(表1)においても、文献1は1つの数値しか出ていないが、文献2は820から829までの数値が記載され、幅のある数値となっている。これに対し、ピークAの数値は813ないし829であり、文献値と一致すると言っても、幅のある話であり、完全に一致しているわけではない。
 第2の点については、サリンのスペクトルと完全に一致するわけではない上、本件においては、本来標品のスペクトルとの比較をなすべきところ、そのような比較を行なっていないとされており、EIマススペクトルとの比較としては不十分である。
 第3の点については、正イオン、負イオンCI法によっても、分子量140と確定できるわけではなく、あくまでも「示唆される」という程度に留まるものである。
 第4の点については、仮にリンを含むとしてもサリンということまでは言えないもので、サリンとは矛盾しないと言うことを意味するに過ぎない。
 したがって、これらを総合しても、100%サリンと同定することはできないものである。
(ウ) 角田基準による検討
 a さらに、角田基準によれば、瀬戸証人の挙げる根拠は、全く理由となり得ないことが明らかである。
 b 瀬戸証人は、第1に、保持指標が文献値に一致しているとする。
 本鑑定書に引用されている文献値(表1)において、文献2は820から829までの数値が記載されており、これに対し、ピークAの数値は813ないし829である。したがって、ピークAは、最大7の保持指標のずれが発生している。
 ところが角田基準によれぱ、同一性の判断において許される保持指標のずれは5までであるというのだから、7のずれは、同一性に大きな疑問が生ぜしめることになる。
 c 瀬戸証人は、第2に、GC/MS、特にEI法の質量スペクトルでサリンのスペクトル同様のフラグメンテーションパターンを示すスペクトルが得られたことを挙げる。
 しかし、本件においては、本来標品のスペクトルとの比較をなすべきところ、そのような比較を行なっていないとされているから、それはサリンのスペクトルと完全に一致するわけではない。
 ところで角田基準によれば、マススペクトルの解析について、フラグメントイオンが同じ場合パーツは同じであるが、類似したピークが出ているとしても、完全に一致していなければパーツの組合せが違う可能性を否定できず、両者は同一物質であるとは言えないというのである。
 これによれば、瀬戸証人の挙げる第2の根拠も同一性の理由となり得ない。
 以上によれば、サリンと同定することはできないという以外の結論はあり得ないのである。
オ その他の資料における毒物検査
 (ア) D甲825における鼻汁資料からのサリン検出について
 D甲825の鑑定書において、鑑定資料14の鼻汁資料からはサリンが検出されたとされている。
 その根拠としては、資料14の鼻汁ジクロロメタン可溶部のGC/MS分析で、保持時間406秒にピークが現れ、それがサリンと目される資料と保持時間とCI一質量スペクトルが一致し、また「EI一質量スペクトルにおいても、他の成分由来のフラグメントイオンピークが強いが、サリン由来のm/z99及び125のフラグメントイオンピークが観測された」とされている(同鑑定書3照)。
 しかし、同鑑定書添付図8の下段に保持時間406秒のピークのEI一質量スペクトルと、サリンと目される資料の図9の下段の図とを比較して、一致しているどころか、類似しているとも到底言えないことは明らかである。鑑定書では「他の成分由来のフラグメントイオンピークが強い」と強弁するが、「他の成分由来」か否かは全く分からないのである。しかも、サリンが含有されているのであれぱ、図9下段の図からも明らかなように、m/z99及び125のフラグメントの外にm/z81にもフラグメントイオンピークが観測されなければならないが、図8の下段の図にはこのフラグメントイオンピークは観測されていない。
 保持時間が同一であるというだけでは、同一の物質であるとは言えないこと、さらにCI一質量スペクトルが一致するだけでも物質を同定できないことは、これまで繰り返し述べてきたことであり、瀬戸証人自身認めてきていることである。  それにもかかわらず、本鑑定の結論として、資料(14)の鼻汁資料からはサリンが検出されたとされている。このように、本鑑定は、極めて恣意的であり、全く信用できるものではない。
 (イ) 同様に、D甲825の資料(15)の鼻汁の水層部TBDMS誘導体のGC/MS分析においても、鑑定書添付の図17中段図と、同図10下段図(「保持時間1178秒」とあるのは「保持時間1004秒」と訂正されている(同第100回49丁表))とを比較し、スペクトルが一致あるいは類似しているとは到底言えないにもかかわらず、メチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたと結論づけられているものである。この結論が全く信用できないことは、すでに述べているとおりである。
 (ウ) その他の鑑定資料についても、その幾つかについてはGC/MS分析等の結果が鑑定書に添付されているが、必ずしもスペクトルが一致していないにも関わらず、サリン関連物質が検出されたと結論づけているものである。また、スペクトルが添付されていないものについては、前記のような恣意的な鑑定がなされていることが明らかとなった以上、果たしてサリン関連物質が検出されたと言えるのか極めて疑問である。
 (エ) ガーゼ資料
 D甲825鑑定書の資料2ないし4は、現場の窓、家具等を拭き取ったガーゼ多数枚である。瀬戸証人によれば、各ガーゼ毎にどこを拭き取ったものか特定ができ、検査はガーゼ1枚1枚を別々に行なったものとされる(同第93回34丁)が、本鑑定書の記載から見る限り、資料番号毎に区別はされているものの、同じ資料番号のものについては一切区別はなされていない。  鑑定結果の記載についても、同一資料番号のものを一括して記載されている。例えば、資料2はガーゼ8枚であるが、D甲825の鑑定書の表2においては、これらは一括して、「サリンー、DIMP+、MIMP+、MPA++」の結果が記載されている。この「十」は検出されたことを意味し、十の数が多いと検出度が強くなるとの意味であるとのことだが、個々の資料(ガーゼ)毎に検査をしながら、そのデータを一括して検出の度合いで表すということは極めて暖味であり、客観性が保障されていない。この点、瀬戸証人も、「8個が8個同じような出方をするということではありませんが、8個並ぺてみまして、全体としてその程度を判断したわけであります。で、これプラス1個、2個、3個というのは、量的なものというよりも、量から反映される程度を感覚的に目安として書いた程度でありますので、正確な量を反映してるわけではありません」と述べている(同第93回36丁)。
 瀬戸証人は、「十」と記載されている資料については、いずれもその物質が検出されたと証言するが、同じ証拠番号の複数の資料の中に、一部検出されなかった資料がある場合もあると考えられ、この点に関する鑑定結果は信用性が乏しい。
 (オ) 角田基準による検討
 a D甲825の鑑定書添付図8の下段に保持時間406秒のピークのEI一質量スペクトルと、サリンと目される資料の図9の下段の図とは、類似しているとさえも到底言えないこと、また、サリンが含有されているのであれぱ、図9下段の図からも明らかなように、m/z99及び125のフラグメントの外にm/z81にもフラグメントイオンピークが観測されなければならないが、図8の下段の図にはこのフラグメントイオンピークは観測されていないことは、指摘したとおりである。
 b ところで、角田基準によれば、質量スペクトルの比較に際しては、ガスマスの質量スペクトルについての標品との比較についても、ピークの強さに違いがある場合は必ずしも両者が一致しているとは言えない。
 また、ガスクロマトグラフ質量分析においては、保持時間と質量スペクトルの両者がいずれも一致しなけれぱ同一とは判断されない。
 ところが、本件鑑定については、上記のとおり、そのいずれをも欠いている。
 したがって、サリンが検出されたとの結論は誤りであるというしかないことになる。
 c また、D甲825の資料(15)の鼻汁の水層部TBDMS誘導体のGC/MS分析においても、スペクトル自体が'致あるいは類似しているとは到底言えないにもかかわらず、メチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたと結論づけられているものである。
 以上のとおり、角田証基準からすれば、検出は否定されるべきである。
カ サリンを合成した疑い
 瀬戸証人は、本件鑑定に当たり、標品としてサリンを合成していないと証言するが、同証人の証言態度、検察官の態度、標品合成の必要性、容易性等の点を考慮すると、瀬戸証人は、サリンを合成していることが強く疑われる。
 すなわち、地下鉄サリン事件における証人尋問においても、瀬戸証人は、サリン合成したか否かについては証言すること自体を拒否しようとする態度が顕著であった。
 松本サリン事件における証人尋問では、瀬戸証人にはそのような態度は認められなかったが、むしろ検察官がこの点に関する証言をさせないとする態度が顕著である(第93回33丁以下)。検察官ばかりでなく、裁判所自体が弁護人の尋問を制限するのは、一体どのような理由からであろうか(同34丁以下)。
 瀬戸証人がサリンを合成したか否かということは、本鑑定において極めて重要な意味を持つ。本来GC/MS検査においては、機械ごとに条件が異なるものであって、同じ機械、設定条件の下で標品のスペクトルをとって、これと鑑定資料のスペクトルとを比較して、同一か否かの判断をすべきである。本件においても、仮に瀬戸証人あるいは科警研がサリンを合成しているのであれぱ、そのGC/MSスペクトルが取られているはずであり、その資料が提出されるべきである。
 瀬戸証人は、サリンの合成は行なっていない旨証言する。しかし、その理由は納得できるものではない。瀬戸証人によれば、本鑑定において、4重極型ガスマス、イオントラツプデイテクター型ガスマス、その他科警研にある機器を駆使して検査を行なっており、その理由について、「前代未聞の事件であるから、サリンの同定をするに当たり慎重を期するため」「サリンの存在、同定を確実度あるため」に行なったと証言する。しかし、そのような意図があるのであれば、数多くの機器を使うよりも何よりも、標品のスペクトルを得ることが不可欠である。瀬戸証人はその必要性を十二分に認識しているはずである。
 そして、サリンを合成することは極めて容易である。すなわち、瀬戸証人あるいは科警研は、サリンの合成方法については熱知しており、その危険性を十分に了解している。また、科警研には危険性を回避することのできるドラフト(強制換気装置)も完備している。しかも、標品として利用するために合成すべき量は極めて微量で足りる。現に、長野科捜研の研究員小林寛也は、自ら微量のサリンを合成しているのであり、科警研と長野科捜研との連絡も十分に取れていた状況にある。

 これに対し、瀬戸証人は、「化学兵器禁止条約、化学兵器禁止法で製造に関しては規制がかかっており、危険性も考慮して、科警研としては合成しない方法をとった」旨証言する(瀬戸尋問速記録(第93回33丁))が、科警研が鑑定の必要のためにサリンを合成することは現在においても規制されていないし、ましてや本件鑑定当時は、証人の言う条約、法律も整備されていなかったものである。危険性についても、瀬戸証人は「科警研が東京の一等地にあるから」等のことも述べているが、前記のとおり合成すべき量は微量で足りるのである。むしろ、同証人が、納得できない弁解をすればするほど、サリンを合成しているのではないかとの疑いが強まるのである。
 あるいは、サリンを自衛隊から入手している可能性もある。地下鉄サリン事件の現場遺留物の仕訳作業は自衛隊化学学校で行なわれている。自衛隊ではサリンを含む化学兵器の研究がなされており、少なくとも科捜研の安藤証人は、サリンの標品のスペクトル自体を自衛隊から入手したことを認めている。そうであるとするならぱ、この松本サリン事件の時点においても、自衛隊からサリン自体を入手している可能性も十分ある。
 仮にサリンを合成しているのであれば、なぜその事実を明らかにしないのか。あるいは、自衛隊からサリンを入手しているのであれば、なぜその事実を明らかにしないのか。いずれにしても、仮に標品があるのであれぱ、そのスペクトルを提出すべきである。これを提出できないのは、標品のスペクトルと比較すると本件資料をサリンと同定できないからとも考えられる。このような疑問が残る以上、本件鑑定全体の信用性には重大な疑間がある。
 キ 以上のとおり、本件各鑑定書は、その内容に重大な疑間がある。
(3) 医師福島弘文作成の鑑定書
 ア D甲827、同828及び同829について
 医師福島弘文作成の鑑定書(D甲827、同828及ぴ同829)は、資料の収集過程において令状主義に反する重大な違法があり、証拠能力を認めるべきではないことはすでに述べたとおりであるが、仮に証拠能力が認められたとしても、以下のとおりその内容には重大な疑問があり、信用できるものではない。
 イ 予断に基づいた鑑定作業
 (ア) 本件各鑑定書は、いずれも平成9年3月14日に作成されているが、本件の3遺体(伊藤友視、瀬畠民子及ぴ榎田哲二)については、平成7年7月14日にすでに福島弘文によって意見書(D甲29、同52及び同58)が作成され、また、他の4遺体(阿部裕太、安元三井、室岡憲二及び小林豊)についても同年7月18日に同人によって意見書(D甲35、同40、同45及び同65)が作成されている。
 そして、本件各鑑定書と各意見書はほぼ同一の内容であるが、福島証人は、意見書を作成した時点までに十分検討し、結論(サリンによる中毒死)は出ていた旨の証言をした(第96回公判20丁、21丁)。
 しかし、福島証人は原因はサリンであるとの予断を抱いて意見書を作成したものであり、したがって、本件各鑑定書も予断に基づいて作成されたものである。
 (イ) 福島証人は、平成6年6月28日当日、3体の解剖をする前に、7体の死体検案書を作成した医師岩下具美から電話を受け、死因等について相談を受け、あらかじめ情報を仕入れており、岩下医師の死体検案書の死因についても「急性中毒死(推定)」であると助言をしている(同7ないし10丁)。
 平成7年5月31日付けで、長野県衛生公害研究所から、原因物質はサリンと推定されるとの内容の「松本市における有毒ガス中毒事故の原因物質究明に関する報告書」が発行され、同年7月3日には、同報告書に基づいて、松本市警察署が原因はサリンと推定されると発表したが、同証人は、この発表についても知っており、また、それ以前にも当時のマスコミ報道で原因がサリンであるとの情報を得ていたことを証言している(44ないし47丁)。
 また、阿部ら4体の意見書作成に際しては、警部補太田辰夫作成に係わる死亡状況をまとめた捜査報告書及び岩下医師作成の供述調書を参考資料としている(同62丁)。殊に岩下医師作成の平成7年6月21日付け供述調書には、小林豊の死因はサリンによる中毒死との記載部分があり、部分が福島証人の意見書作成に際して大きく影響を与えたことは想像に難くない。  さらに榎田哲二の鑑定書(D甲829)では、榎田宅の洗面器の中の水についての鑑定書(D甲566)は引用しておらず、同証人はその理由として、遺体以外の環境条件については鑑定には引用できない旨証言している(24丁)。理由は鑑定受託者として当然のことであり正当なものであるとはいえ、その一方で、意見書(D甲58)には水についての鑑定書を引用して、サリンによる中毒死と緒論を導いている。D甲829の鑑定書は意見書をそのまま書き写したに過ぎないものであり、結果的には水についての鑑定書も本件鑑定書に引用したことと同様である。
 (ウ) 証人自身が、解剖当時サリンについての知識はほとんどない旨証言している(同10丁、11丁)にもかかわらず、同意見書及び鑑定書で死因はサリンによる中毒死としているのは、すでに述べたとおり、本来の鑑定資料たるべき死体及びその解剖結果から結論づけたわけではなく、岩下医師からの情報やマスコミ報道等によったものである。すなわち、福島証人は、原因はサリンであるとの予断を抱いて右意見書を作成したものであり、したがって、同意見書をそのまま書き写したにすぎない本件鑑定書も予断に基づいて作成したものであって、この点だけからも到底証拠能力が認められるべきものではないし、内容の信用性についても大きな疑問がある。
ウ 鑑定内容について
 (ア) 科警研の鑑定書の取扱い
 福島証人は、本件鑑定書の主文で死因がサリンによる中毒死であるとした理由の1つとして、3死体の心臓血から、メチルホスホン酸及びメチルホスホン酸ジイソプロピルが、伊藤及び瀬島の心臓血からメチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されていること、また、榎田の鼻汁からメチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されていることを挙げ、この物質の検出については、科警研の鑑定書(D甲825)を確認したところ、「矛盾はない。正確に記載している」として、同鑑定書は信用できるとしている(同30丁)。
 しかし、長野県警科学捜査研究所の鑑定結果によれぱ、この物質は検出されなかったのであり(D甲838、同840及び同842)、福島証人もそのことを認識して本件鑑定書を作成した。それにもかかわらず、同証人は、科捜研の検査機器よりは科警研の方が高価であるとの「印象」を理由に、科捜研の鑑定書は考慮しなかった旨証言している(同31丁)。
 また、榎田の心臓血からがメチルホスホン酸モノイソプロピルは検出されなかつたが、このことは度外視して、その一方で同人の鼻汁から同物質が検出されたとする鑑定は正しいと判断している(同65丁)。そして、榎田のサリン吸入が致死量であったなら、心臓血からメチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されなかった理由については説明できず、サリンに暴露されたからと,原因がサリンであることを前提に、致死量だったから死亡したのだと詭弁を呈している(同78ないし80丁)。  このように、同証人の鑑定はいかにもご都合主義的なものであり、これも前記のとおり、原因はサリンとの予断を抱いていたため、それに沿った結論を導く目的で、恣意的に心臓血等の鑑定書を引用したことは明らかである。
 (イ) コリンエステラーゼ活性値の異常性
 本件鑑定書は、コリンエステラーゼ活性値が異常であったとの科警研の鑑定書を引用しており、福島証人は、基準となる正常値は同鑑定書の記載で特に間題がない旨証言し(第92回尋問速記録49丁)、本死の死因をサリンによる中毒死とした理由の1つとしている(同6丁)。
 しかし、榎田の血漿ブチリルコリンエステラーゼ値は、正常値の下限1・84に比較して、全血で1.26、右心室で1.28であつて(D甲823)、同証人が「極めて低い」と言うほど(同6丁)低くはない。また、正常値の基準となった検体数はたったの8体でしかなく、同証人自身が「普通基準値というのは100例くらい出すのが望ましい」と認めるほどで(同29丁)、基準値(正常値)がそもそも不確実なものであるから、科警研の鑑定書(D甲823及び同825)の正常値を基準値として正常・異常を判断すること白体が誤りである。
 また、科警研の同鑑定書では、瀬島の赤血球アセチルコリンエステラーゼ値が右心室カミ0.47であるのに対して、左心室が0.05となっていて大きな隔たりがあるが、同証人はこれをも測定誤差だと証言しており(同74丁)、このことからも同人が活性血の正常・異常を判断するについての十分知識を有しているのか極めて疑わしい。
 さらに、科警研の同鑑定書では、血漿ブチリルコリンエステラーゼ値に比して、赤血球アセチルコリンエステラーゼ値の方が低いとの結果が記載されているが、福島証人は、両者の相関関係や赤血球アセチルコリンエステラーゼ値の方が低くなる理由については説明ができず、そのような結果に違いが出てくる根拠(データ)はないと証言している。そして、サリンを吸入したとの前提に立って、結論がサリンだから結果的にかかる現象が生じたとしか証言できなかった(同68丁、69丁、71丁)。
 同証人は、本件解剖以前には有機リン系化合物による中毒死についての解剖の経験はなく、赤血球アセチルコリンエステラーゼ値については検査した経験がない旨証言しており(同132丁〜135丁)、このことからも、そもそも福島証人がコリンエステラーゼ活性値について正常・異常を判断する知識・経験が欠如していることが明らかである。
 以上から、科警研の鑑定書を間題がないとして引用してコリンエステラーゼ活性値を異常とした本件鑑定書はこの点からも到底信用できない。
 (ウ) 縮瞳
 本件鑑定書は、死因をサリンによる中毒死とした理由の1つとして、解剖所見として縮瞳があることを挙げている。そして、福島証人は、主尋問では、伊藤及び榎田については瞳孔の大きさは3ミリで、瀬島は4ミリで明らかに縮瞳であると証言している(福島尋問速記録第92回8丁)。
 しかし、黒田直人証人は、第65回公判において、何ミリ以下が縮瞳とは言えないが、直径3.5ミリ程度では普通縮瞳とは言わない旨の証言をしている。すなわち、少なくとも法医学者の間では、3ミリないし4ミリでは縮瞳があるとは断定はできない。
 ところで、反対尋問においては、福島証人は、有機リン中毒によって縮瞳がおこる場合は非常に顕著であり、ピンホールという言葉で表現すること、ピンホールとは1ミリ以下であること、縮瞳は単なる大きさを言うのではなく、時間的経過の観察抜きで判断できないと証言している(同82丁、83丁)。すなわち、同証人は、主尋問における証言及び本件鑑定書の縮瞳があるとの記載は間違いであることを認めたのである。前述したとおり、同証人は、マスコミ報道や岩倉医師の供述調書(平成7年6月21日付け調書には小林豊は1ミリの縮瞳があったとの記載がある)等から死因はサリンとの予断を抱いていたのであり、予断に基づいて、縮瞳現象が明確ではなかったにもかかわらず、本件鑑定書に縮瞳があるとの所見を記載したのである。
 (エ) 急死所見
 福島証人は、急死所見として、主要臓器の欝血があったことを挙げている。しかし、例えぱ、D甲827(14頁)には主要臓器である肝臓について欝血の記載がなく、同828(15頁)にも同じく主要臓器である腎臓について欝血の記載がない。同証人は、臓器の色が「暗赤褐色」あるいは「紫赤褐色」であるとの記載が欝血を表していると証言しているが(福島尋問速記録第92回公判39丁、40丁)、欝血であればそのような記載をすればよいのであり、この記載は単に臓器の外表を表すものでしかなく、急死の所見とは言えない。
 また、本件鑑定書の「死因」欄には、「サリンによって暴露された結果、呼吸器系や循環器系に致死的な急性中毒症状を惹起した」との記載があるが、福島証人は、呼吸器系のうち中枢神経に対するサリンの作用と末梢神経に対するサリンの作用とは両方いっぺんに起こると証言している(同8.1丁)。この点につき、高取健彦証人は、「致死的な状態を与えるのは中枢神経のとりわけ呼吸中枢の障害が先に起こる。」と証言している(高取尋問速記録第54回22,23丁)。福島証人の見解は少なくとも法医学者の間では一般的なものとは言えないのであり、かかる見解を基にこのように死因を判断しているのであるから、この点も信用性に欠ける。
 さらに、中毒死の可能性が高い場合は、有機リン系農薬、カーバメイト剤、あるいは神経ガスを疑うべきであり、摂取経路についても、経口からの可能性を考えるべきである。そして、経口からの摂取を検討するためには、胃の内容物を検査すべきことは当然である。しかし、福島証人は胃の内容物の検査はしなかった旨証言しており(福島尋問速記録(第92回48丁))、この点でも本件鑑定書は信用性に欠ける。
 (オ) 結論
 以上のとおり、本件鑑定書は、死体及び解剖結果を鑑定資料として緒論を出したものではなく、サリンによる中毒死との結論は科警研の鑑定書が決め手となったものであり、そのことは福島証人自身も認めている(同99丁)。科警研の同鑑定書に信用性がないことは、すでに述べたところであるが、本件鑑定書は、科警研の同鑑定書からの引用を除いた、死体及び解剖結果の部分については、以上のとおり、原因はサリンであるとの予断を抱いていた上、その手法及び推論にも重大な疑義があって、到底信用できるものではない。
(4) 負傷者について
 ア 負傷者の症状とその原因について
 本件において、河野澄子、河野義行、西川紀代美、吉本大介らがサリン中毒による傷害を負ったとされる。  しかし、有機リンではなく、カーバメイト系薬物によっても同様の症状が出るのであって、有機リン中毒と特定することもできない。
 またこれらの者達の症状のみからすれば、有機リン中毒の症状とは矛盾しないとしても、その原因物質が有機リンの中でもサリン特有のものは一切ない。
 また、これらの者につき「サリン中毒」との診断をしている医師は、現場から「サリン」が検出されたとの警察の情報に拠ったに過ぎず、その情報は、一般人がマスコミ報道で接する程度の情報と何ら変わるものではない。  また、本件事件において撒布された物質が教団で生成した「ブルーサリン」であるならぱ、メチルホスホン酸ジイソプロピルが多量に含まれており、前述のとおりサリンはすでに分解しメチルホスホン酸モノイソプロピルあるいはメチルホスホン酸となっているはずである。
 そして、これらの物質も有機リン系の物質であり、殺傷力の程度に差はあるとしても、いずれもそれを吸引した者には、有機リン中毒の症状が生じる。
 このように、これらの者がサリン中毒であると認定するためには、カーバメイト系薬物、メチルホスホン酸モノイソプロピルあるいはメチルホスホン酸等の他の薬物の除外判断ができるかが、先入観から逃れて客観的に判断されなけれぱならない。
 以下、各人の個別の間題点のみ指摘する。
イ 河野澄子について
 鈴木証人は、サリン中毒と合致したという判断基準として、農薬中毒のような特有の口臭がないことを挙げている(鈴木証人尋問速記録第92回7丁)。
 しかし、河野澄子の診断書は、実際に診療に当たった鈴木証人ではなく、診断書の依頼があった時点での主治医であった笹井医師が作成している(鈴木証人尋問遠記録第92回6丁)。しかも、診断書の作成の依頼が警察からあったのは、1995年(平成7年)の6月頃のことで、本件から約1年が経過している。
 河野澄子が搬入された直後の様子を診察していない笹井医師が、どのような根拠で、カルテに積極的に記載されていない、農薬中毒のような特有の口臭がないことを判断できたのであろうか。
 そもそも、診断書の記載の正確性に疑問があるぱかりか、そのときはすでにサリンが原因であると報道されていること、刑事事件と成っていること、警察の裁判提出用の診断書であることから、積極的な根拠はないにもかかわらず作成された診断書ではないか、との大きな疑問がある。
ウ 河野義行について
 (ア) 証人鈴木順が臨床所見において感得した河野義行についての各種情報の中でも、重要な所見は、コリンエステラーゼ値、縮瞳、筋肉の撃縮、著名な発汗であった。
 この所見のうち、「著明な発汗」について、鈴木証人は、その証言で「著明」と明言しながら、実際には、医師記録にその旨の記載がない。
 この点につき鈴木証人は、証人自身の「記載漏れ」であるとの苦し紛れの弁解をするが、証人自身が「(医師記録になくても)そこにはあるはず」と証言した看護記録中にもその記載はなされていないことが、法廷において明らかになった。  河野義行について、鈴木証人が主尋間で当法廷でよどみなく証言した「重要な所見」の1つが、実際にはなかったことは明白である。
エ 西川紀代美について
 (ア) 西川紀代美は、当初松本協立病院に入院したが、平成6年7月1日に城西病院に転院している。城酉病院では薄井尚介医師が診断治療を行ない、平成9年10月9日で診断書(D甲851)が作成されている。
 ところが、この診断書よりも前の平成7年6月24日付けで同医師が作成した「診療所見表」があるが(薄井尋問速記録(第100回)添付のもの)、同書の「症状」の記載はでたらめであることを、薄井証人は弁護人の反対尋問で認めている(同速記録)。同「診療所見表」の作成時に西川を診察したいたのかどうかの記憶もなく、後の薄井診断書(D甲851)の根拠になった記録自体が信用できない。
 (イ) 特に、有機リン中毒の症状として重要な「縮瞳」について、右「診療所見表」では、「2ミリ」と記載するところを左右ともに「0.5ミリ」と記載し、なぜ、そのように誤記するに至ったのか、そのように記載するときに何も疑間を抱かなかったのか等の弁護人の反対尋間に一切答えることができない始末であり、この事実は、薄井医師の診断と記録の全体が全然信用できないことを明白に物語っている。
 (ウ) 薄井証人に対する弁護人の反対尋間では、薄井診断書における「(サリン中毒)」の診断がいつ行なわれたのかという問題にも答えることができず、診断の経過が逐一記録されるはずの「保険診療録」には、「サリン中毒」の記載が存在していないのであって、前項の理由のほかに、この理由によっても、薄井診断書における「サリン中毒」の診断と記載は全く信用できない。
 (エ) 西川は症状が改善したために自分が勤めていた城西病院(薄井医師が副院長)に移されてきたが、その転院前の担当医師が、「診療所見表」で、「中等症」と「総合診断」した患者の状態につき、薄井証人は、「診療所見表」において、「重症」と「総合診断」しながら、その「総合診断」の差異に関する基準の違いや根拠・理由等に関し、一切の説明ができなかったのであって、およそ「医師」としての科学的な見識と判断の片鱗も認めることができない状況であった。
 (オ) 以上のとおり、薄井診断書及び薄井証人の証言は、到底信用できるものではない。
オ 吉本大介について
 (ア) 吉本大介の治療に当たった森田洋医師は、その治療の過程において、サリン中毒を念頭においた治療をしていない。すなわち、サリン中毒であれば、早い段階でパムを投与すべきであるが、結局吉本に対してはジアゼパム及び硫酸アトロピンを投与したものの、パムは投与していない(森田尋問速記録(第101回))。
 森田医師は、6月29日に吉本の父親に対するムンテラを行なっているが、その時点においても、「有機リン系のものが最も疑われるが、既知のものであるかどうかは不明である。単剤によるものかどうかも不明である」と説明している(同27丁表)。
 この点に関し、森田証人は次のように証言している。すなわち、「有機リン系の毒物であってもパムは万能ではない。要するに、パムの効かない有機リン系の毒物がかなりたくさんある。それで、同じような症状を出すカーバメイト系の薬剤というのはパムが全く効かない。」と述べている。
 これは、同証人が、終始、有機リン中毒の疑いは強いが、カーバメイト系薬物の中毒の疑いも持っており、さらに、有機リンの中でもサリンとは思っていなかったことを意味するものである。
 (ア) 吉本については、心室性期外収縮(いわゆる不整脈)が生じている。これは通常の有機リン中毒あるいはサリン中毒で報告された例はないとのことである(森田尋問速記録(第101回36丁))。したがって、この症状は本件において撒布された物質との因果関係は認められないというべきである。そうすると、吉本が快復までに長期間かかったとしても、それが全て本件事件に基づくものということはできない。

5 被害の発生状況と因果関係について
 (1) このように、鑑定結果等を検討すると、個々の被害者の症状が、村井らが撒布した「サリン」によるものであるかについては、種々の疑間点があるが、それのみならず、本件事件における被害の発生状況を見ると、本件の実行行為と、被害の発生との間の因果関係には、大きな疑問がある。
 (2) 本件が実行された時間は、6月27日、午後10時40分頃から約15分間であったとされている。
 確かに、本件事件後、周辺住民を対象として取られたアンケート調査では、6月27日の午後10時から午後11時頃に、多くの人が症状を訴えている。
 しかし、他方、同じ調査結果によれば、午後8時から9時の間にすでに5名の人が症状を感じ、さらに、午後9時〜10時の間に症状を感じていた人が8名いた、との結果が記載されている。
 さらに他方、28日午前6時〜午前11時にかけても、多数の人が症状を訴えているという結果が記載されている。(弁70号証「松本市有毒ガス調査報告書」112丁)。
 (3) これは、まことに不可解なことが起きているといわざるを得ない。
 この点は、実行行為と被害との因果関係にかかわる大きな問題である。
 実行行為があつたとされる10時40分より約3時間以上も前に症状を訴えた人がいる事実、さらに実行行為が終了してから6時間以上も経過した後に多くの人が症状を訴えている事実は、説明することができない。
 まず、実行行為より前に症状を訴えている人は、実行行為との因果関係を否定されるべきは当然である。
 また、実行行為から数時間が経過した翌28日午前6時から午前10時頃に症状を訴える人のもう一つのピークについては、実行行為後すでに7時間以上が経過しており、村井らが撒布したものは希薄化していると考えるのが客観的にみて合理的である。とすれば、相当因果関係の見地からは、因果関係は否定されるべきである。
 以上のように、実行行為の前及び実行行為から約7時間後に症状を訴えた人々の症状と実行行為との因果関係を否定すべきであるとすれば、どの時点より前あるいはどの時点より後の人までは因果関係がないとされるのか、その限界が明らかにされなければならない。
 しかし、検察官は、そもそもこの事実には一切口を閉ざし、立証を一切行なっていない。
 その結果、結論において、どの被害者が実行行為と因果関係があるのかの立証がないと言わなけれぱならない。

第3 小括
 以上のとおり、松本サリン事件については、被告人の「共謀」の事実は否定されるべきである。
 また、撒布されたものがサリンであったとの事実は、合理的な疑いを容れない程度の立証がなく、この点において、訴因記載の事実は認められるぺきではない。
 また、仮にサリンであったとしても、実行行為と被害者との間の因果関係が不明である。
 よって、本件について、被告人は無罪である。





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