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荒木浩
(「オウム真理教(当時)」広報副部長)


初めに

破防法の問題については、私達オウム真理教の人間は、戦いにくい戦いを強いられています。私達が破防法に反対の声を上げれば上げるほどマイナスの効果を及ぼしてしまうという状況があります。破防法について熱心に話せば話すほど、その言葉は厚かましく聞こえ、議論を深めれば深めるほど聞く人の関心を削いでしまう状況です。
破防法の当事者は私達です。自分たちのことを本質的に語れば、宗教的な部分に触れてくるのは当然であるにも拘らず、この状況は破防法の手続きが始まって以来、慢性的に続いています。
すれ違いに終始した破防法の弁明手続きを見て、破防法を巡る状況がオウム真理教の不戦勝よりも不戦敗に傾いているように思えます。何故、当事者の声を聞いてもらえないのか。それについては、おそらく教団が、一連の事件について謝罪も反省もしていないからだという返事が返ってくることでしょう。この意見はある意味でもっともであります。


皆さんはこう思うでしょう?

昨年三月の強制捜査直後から、一連の事件は全てオウムの仕業であると断定していた人にとっては、教団のこれまでの対応は、反省が見られないばかりか、一歩進んで事件を肯定しているとさえ見えるかもしれません。
確かに事件の当事者と言われている人達が法廷に立ち、問われている容疑について、当人自身がそのまま認めているような場合、それを第三者に過ぎない私達が、積極的に否定したり反論したりすることは、残念ながら今の時点ではできません。
このように言うと、本当に私達は第三者と言えるのかどうかということが問題となってくるのかもしれません。幹部であろうが末端であろうが、オウムはオウムだというのが大方の見方かもしれません。
グルである麻原尊師に盲従する、?????という印象が、皆さんの中に定着してしまっていることでしょう。
テレビでお馴染みになった、カメラを振切って、時にはカメラに掴みかかって、足早に走り去るモザイク顔のオウムの信者の映像が、この種のイメージ形成に大きく貢献したはずです。また、それらは所詮は作られたイメージに過ぎず、テレビ屋さん達による挑発的な映像作りの現場の数々を目撃してきた私は、非常に残念な思いを抱いてきました。
せめて、今日ここに来られた方々には、オウム真理教の信者の素顔の一端に触れて頂きたいと思います。
こうした、オウムはオウムだといった意見が、如何に乱暴な意見であるか、?????が少しでも分かって頂けるのではないかと思います。
また、その一方で、一般の信者たちの布施がサリンの製造に使われたかもしれないという、そういった論理で、一般信者の当事者責任を問う声もあります。たとえ無自覚であっても、事件に間接的に関与した責任はある、と訳です。
私、あの、さっき江川さんに?????。この意見に明確に反論することは今の私にはできないです。じゃあ、それをそのまま受け入れるのかと言われれば、ある種の戸惑いを覚えるのも事実です。どこかしら、取って付けたような意見で、否定も肯定も出来ないような居心地の悪さを感じてしまう。取って付けたような問題提起には、取って付けたような応答しか返せないと、私はここで正直に告白しておきます。



責任論について

私が抱いている一つの疑念は、この種の議論をそのまま進めると、いわば責任のインフレーションを引き起こし、本質的な責任論議を見失ってしまうのではないか、というものです。当事者として言うのも気が引けますが、レベルの責任論は、回りから急き立てて問い詰めるよりも、一人一人の意志から出発して、まずは内心において整理すべき問題であるように思います。
しかし、そんなことよりも、私が強く感じていることは、私達オウム真理教の信者にとって、一連の事件は、お布施がサリンに使われたという程度の問題では無いということです。この程度の経済の論理、もしくは経済にこと寄せた常識的な論理で片付けられるほど、私達の置かれている立場は単純では無いです。
法廷では、オウム事件といわれる多くの事件が扱われています。報道で伝えられてきたこと、法廷で語られてきたことのうち、一体どこからどこまでが真実であり、その内、誰がどこまで関わっていたのか。教団が引き起こした一連の事件というような抽象的な表現ではなく、事実の正確な姿を知ることを信者は望んでいます。
そしてその上で、それでは何故そのような事件が起こったのかという核心部分の問までつなぎ合わせた問題として事件を受け止めようとしているんです。
その意味では、事件の当事者と言われている人達ですら、これらの問題をきちんと総括してきていないように思います。
刑法に則った今の裁判制度の枠組みでは、どこまで事実と真実に迫れるのか少し怪しくなってきたといったという気がしないでもありません。オウム事件を見つめる世間の眼差しは、もはや事件は半ば片付いたものとして関心を?????していません。
しかし、何れにしても、それはおそらく江川さんも認めているであろうオウム真理教の真面目な信者にとって、信仰の部分に触れてくるとすれば、それから先の話だろうと思います。

今、たとえ脱会しても、謝罪しても、あるいは教団を解散しても、今のままでは結局何も変わらないし、何も始まらないし、何も終わらないし、ただ何かを置き去りにされてしまうだけでしょう。
現世を捨て、出家までして人生の全てを捧げたオウム真理教の宗教的な核に対する探求は、今、始まったばかりです。あるいは、人によっては、まだこれから始まる端緒に差し掛かったというところではないでしょうか。
我々にとって、問題の規模は、まだその全貌を窺い知ることはできません。先へ進めば進むほど、問題の重みは増してきます。まわりからの非難以上に、何よりも自分自身にとって、その重みは誤魔化しきれないものです。しかし、それでも、信仰の内側に踏みとどまり、この大きな広がりと規模を持つ問題を見ていく基点を無くしてしまってはならないと私は考えています。
この掛替えの無い探究の場としての信仰の内側を残すためには、それを守るためにも、破防法を巡る状況を理解していきたいと思います。
こういうことを言うと、だからオウムの人の話は聞いていられない、という風な感想を持たれた方もいらっしゃるかと思います。そういう独り善がりな話をしているから破防法反対論も説得力を持たないと。
ただ、破防法の賛成を、最も説得力のある、最終的な暗黙の論拠としての世論の味方も、おそらくそういう風に傾いて行くでしょう。ただ、破防法に暗黙の内に賛成した世論の実体とは一体何だろうかということに関して、これは、今日お配りになった、弁明手続きの第六回目の中にあるんですが理人の芳永先生が、非常に本質的な議論をこの中で展開されています。



ニュースステーションの世論調査

私の破防法弁明手続きの中で一番印象的な部分でもあるんですけども、お持ちの方は開けて頂きたいんですけども、43頁にあるんですよ。六月二十一日のテレビ朝日のニュース・ステーションにおける世論調査に関する分析です。そこで、三つの問いがされております。
「オウム真理教が、今後も無差別テロを起こす可能性があるか」。「あると思う」が52%、「ないと思う」が43%。
二つ目。「逃亡中の容疑者が逮捕されていないことに不安を感じるか」。「不安を感じる」80%、「不安を感じない」が19%。
で、その上で「オウム真理教に破防法を適用することに賛成か」という問いに対して、「賛成」72%、「反対」が17%。という結果が出ております。私は前から疑問に思っていたのですが、破防法に関して賛成かどうかという問い自体が、非常に違和感を感じる訳です。法律を前提として考えた場合に、破防法というのは要件を満たした上で適用される問題であって、かけたいからかける、そういう問題では無いはずです、本来。これは、破防法というものが全く理解されていないことを示す結果だと思うんですけども。
それと、聞き方に関して、破防法適用というのは、三つの論拠が?????とされています。かけたいからかける、という、その、楽な?????、具体的には、過去に於いて、団体として政治目的を持って暴力主義的破壊活動を行ったかどうか、二つ目として、その事件というのは政治目的を持っていたものであるかどうか、三つ目として、将来にわたる危険性があるかどうか。こういう三つの要件をクリアした上で、まあ適用できると。それで初めて適用が可能なんです。賛成・反対というのは、この三つを満たして初めて適用ができる、こういう条件が破防法には設定されております。
そういったものを無視して、さらに要件自体を厳密に理解された上でこの世論調査に答えている方は少ないと思うんですが。それを飛ばした上で、賛成か反対かというような議論に持っていっても、それは結局、法律の考え方として全くナンセンスというか、適切でないと思います。
芳永先生が言われているのは、まず、オウム真理教が過去に引き起こしたとされるした事件に関して、団体として、つまり教団として行われたものであるか、と。具体的には、松本サリン事件が、オウム真理教の全体の犯行であるかどうか。あれは一部の者が引き起こしたことであるかどうか、そういう設問をまず最初に立てる、と。
それをクリアしてから、次の設問に入ると。その松本サリン事件というのは政治目的、公安調査庁が言う、現行の憲法体制を廃し、尊師を絶対的な主権者とする祭政一致の独裁国家を樹立するという目的の為になされたものであるのか、という設問が次に来て、これがそうなら次の設問に入る、と。で、更に、オウム真理教が同様の危険な無差別テロを繰り返す恐れがあるか、と。
そこで初めて3つ目の、将来にわたる危険性というのが出てくる訳ですけども、そういった設問の仕方で組み立てていかないと、この破防法に関する議論に参加できない、という風な話をここで進めていらっしゃいます。
こういう、最初の「オウム真理教は今後も無差別テロを起こす可能性があるか無いか」、これはニュース・ステーションの設問ですけども、それすら52%だ、と。ある意味では、52%しかいない、と。にもかかわらず、破防法適用に賛成、これは72%も賛成ですけども、これはやはり矛盾しているわけですね。
破防法に関する認識が、全く出来ていないという。最終的には破防法適用ということに賛成である、賛成でない、ということに至る以前に、事件についての認識、団体として政治目的を持って行われたか、といった設問をクリアしないと、賛成の72%という数字は生じてこないんですよ。
まあ、言ってみれば、これが破防法を暗黙的に支えている世論の実態であろう、ということが、芳永先生の分析の中で、きれいな形で示されていた、このように私は思いました。
以前から、破防法に賛成・反対という議論には違和感を感じていたんですけども。こういう冷静な議論を、とにかくその、さっき鈴木さんも仰いましたけども、賛成の人も反対の人も来て、議論をもう一回、一から仕切り直した形でやってもらいたいという思いを、本当に最近、強く思っています。



破防法のさらなる議論を

弁明手続きがああいう形で打切られ、引き続き審査を受け継いだ公安審査委員会の中で、いったい何が、どういう風に行われているか、全く外には伝わってこないような状況です。
そういった中で、改めて破防法の議論というのを、もう一回、せめて関心のある人だけでもいいですから、一から仕切り直した上で話し合っていく場所を、どれほど私達にこれから時間が与えられているのか分かりませんけども、していきたいな、やってもらいたいな、そういう風に思います。ありがとうございました。





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