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司会挨拶


実行委員会メンバー

まず、本日のスケジュールを説明しますが、その前に今日のシンポジウムの開催の理由を述べさせていただきます。シンポジウムの実行委員会というのは、昨年来のオウム・バッシングを疑問視し、マスコミの暴走や警察の微罪・別件逮捕に反対してきたオウム真理教とは無関係の一般市民、それから、そういう活動を進めて行く中で知り合ったオウムの一般信者、とりわけ京都の山科マンションの追い出し問題を通じて知り合った信者の方数人に、企画の段階から参加していただいています。私共は、彼らもオウムを信仰しているだけの、言わば市民だと同じだと捉えていますから。


ガイドラインと市民集会

それで、七月十一日に公安調査庁が発表した、いわゆるガイドラインは、破壊活動第八条の解釈として「団体の意志決定またはこれに基づいて行われる団体としての活動に参加・従事すること」を禁じながらも、教団以外の団体が主宰する集団示威運動に参加することまでは禁じてはいないんですね。しかしオウムの信者が、市民、オウム以外の市民が主宰する破防法反対集会に出席するだけではなく、企画の段階から参加することが、いわゆる違法なのか適法なのか、ガイドラインを見る限りでは、はっきりしないように見えるんですね。このはっきりしないというところが、曖昧な部分、つまり解釈基準が曖昧で、取り締まる側がいかようにも自己解釈できるという恐ろしさの一つではないかと私は思っています。

しかし逆に今回の集会が一つの基準になるという(笑)、そういう可能性もある訳ですね。さらに、今回の集会の件について、我々実行委員会のメンバーが圧力なりを受けた場合、破防法が信者以外の人に、いわゆる普通の一般市民にも直接的に危険な要素をもつ法律であることが証明される訳ですね。それを世論に訴えかけることで、さらなる反対運動に繋げていくことも出来る訳です。

更に破防法反対の理由といたしましては、もし実際に破防法がオウム教団に適用されたとしても、それが本来目的とするテロ行為の防止に、果たして本当に効果があるのかどうかということが疑わしいこともあります。


裁判は続いている

それから、オウム真理教が引き起こしたとされる凶悪事件の裁判の多くは現在も継続中です。一部の拉致監禁事件や暴行事件では、明らかに事件に関わっていないのではないかなと思われる人が有罪の判決を受けていたり、今も拘置所の中に居たりする訳ですけれども、これは私個人の考えですけどね、いわゆる二つのサリン事件については、オウムの信者が深く関わっているんだろうな、と、私はそういう風に捉えているんですね。勿論、今の段階で断定することは本当は良くないのですけども、今は去年の今頃の時期と違って、公判である程度証言が出てますから、ちょっと突っ張りにくくなってる状況なんですね(笑)。


一般信者の姿

それでも私が思うのは、オウムの信者の全てが事件に関与していた訳ではない、つまり、オウム真理教という団体が、そもそも政治的目的を持って破壊活動を繰り返し行うことを目的とする団体では無かった訳ですからね。オウムに破防法が適用されれば、日頃は人間どころか虫さえも殺さないように戒められてるんですよね、信者の方達はね。単にそのオウムの教義を信じている、と。あとはもう、その辺にいる普通のおっちゃん、おばちゃんと何にも変わらんような人達までもが、これから先、自分の心の中身まで干渉されていくことになる訳ですわ。


私の参加理由

私たちはこんなことが許される世の中であってほしくないし、こんなことが許されるなら、今後はオウムの信者だけでなくて、国民の誰もの身に、いつか大きな影が落とされるという事態になりかねないということに、凄い危機感を覚えています。破防法が持つ危険性を、適用対象であるオウムの信者と一緒になって世間にアピールし、同法適用を阻止していこう、と。それが今回の集会を開いた動機です。

私自身は、オウム真理教という集団自体が持つ体質には、今日は信者の人も来ているんでですけれども(笑)、ちょっと馴染めないところがありまして、教義についても、沢山の本を読ましていただいたんですけれども、今の段階では私の心にすんなりと入ってくるものではないです。私自身は宗教家ではありませんし、仏教について、あまり知識もございませんから、偉そうに教義をどうのこうのと語る資格はないんですけどね。 

それからね、私はオウムの信者が引き起こしたとされる一連の凶悪事件は、やっぱり二度と起こって欲しくないです。しかし去年の春、マスコミが流した情報に対して直感的に不信感を覚えて、報道の一つ一つを書き留めて検証していったんですね。そしたらやっぱり矛盾点がいっぱいあって、これはやっぱり、これだけの大事件やから自分の目で確かめるしかないな、と。それがまあ、オウムの信者の方と接触し始めたきっかけなんですね。そうしている内に、一年以上経ちましたね、信者の人と話しをし始めて。沢山の信者の人と出会ったんですけども、こういう人達に破防法が適用されるような社会になってはいけないという気持ちになったのが、私が破防法反対の運動に参加した当初の理由です。


信仰の自由と事件を区別せよ

事件は事件として、もちろんきちんと裁判を通じて実行犯が責任を取るべきなのは当然なんですけども、もし仮に一連の事件が、教団の一部の信者がね、教祖の指示の下に行ったものであったとしても、やっぱり何も罪を犯していない、更に言うと、事件についての情報を全く知らされていなかった信者の人たちの生活や人権を侵害してはいけないし、また彼らの信仰それ自体は、私はやっぱり認めてあげるべきやと思うんですね。人間の心の中まで他人に干渉されるような窮屈な世の中には決してなって欲しくないし、それを阻止するために一人の人間として出来ることはないかと考えて、今、この場に立っている訳です。これが、私自身がオウムへの破防法適用に反対する理由です。





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