戻る
武田健
(パソコン通信ハンドルネーム「光と空」)
(「オウム真理教(当時)」出家信者)


個人的立場から

実は私、今日の朝まで、上九の方で一週間程、集中修行に入ってまして、大きな声が?????、それと、ちょっと声が通りにくいかもしれませんけれども、その辺をよろしくどうぞ。
あの、「光と空」という紹介のされ方で?????けども、パソコン通信の方は、まだそれほど普及しているメディアじゃないんで、ここには全然知らない人もいるかもしれないですけども。精力的に活動しているという紹介のされ方をしたんですが、ちょっと前までは精力的に活動してたんですが、最近は、ちょっと?????で、あまり?????、恐縮してしまうんですが。
今日は実は、さっきも言いました通り、今朝まで極言修行というか集中修行に入ってまして、今日、何を話そうか、全然考えてませんでした。こっちに来る新幹線の中で考えようと思ったんですけど、まあ、修行中というのは、殆ど寝ない状態で修行してましたので。新幹線で、さあ考えようか、と。気付いたら車掌さんに「終点ですよ」って起こされてしまいまして(笑)。結局、考える時間が無いまま、ここに来てしまったんですが、まあ、?????的な話は、荒木さんの方から今、出てましたので、私は一信者としてね、無責任と言ったら変ですけども、まあ、ざっくばらんに話をしたいと思います。


オウム信者への罵倒・中傷

パソコン通信の話をちょっとしますが、パソコン通信というのは、知ってる人はご存知かも知れませんが、まだ余り秩序が確立されていない世界だと思います。こういう言い方をすると反論があるかもしれませんが、安易で究極な無責任空間、そういう感じがします。例えば罵倒、中傷、??????????、特に私なんかが、最近はあまり書かないですけども、オウム関係の?????を肯定するようなことを書くと、その三倍?????罵倒、中傷が?????。こちらは罵倒とか中傷自体に関しては、罵倒されれば修行が進むということもありますので(笑)、これは別にいいんですけども。
勿論、それはパソコン通信だけじゃなくて、最近はやってませんけども、以前、ちょっと前まではチラシ配り、街頭でチラシ配りをやってた訳ですが、チラシ配りなんかやったると、いろんな人が罵倒する。罵倒するだけじゃなくて、殴る、蹴る。?????。
あるいは電話で。この電話に関しても、オウムの施設に、私は横浜支部長ですが、一日に数十件単?????、電話を取ると、人殺し、解散しろ、と。訳分かんない人の電話を取ると、ウオーッ、ギャーッって(笑)、なん?????。そういう訳が分かんない?????。だけどまあ、非常に修行が進む時代でいいと(笑)。

いたずら電話の中で、たまには会話を求めてくる人もいるんですけども、この間ちょっと例として、
「私は小林よしのり先生の部下だ。小林よしのり先生は、私のボスである」
という方から電話がありまして、もちろん本当かどうかは分かりませんけども、そう言われまして、
「小林よしのり先生を殺そうとする奴は許せん」
と言う訳です。私は小林よしのりという方に関しては、昔、「東大一直線」、非常に懐かしいですけども、それが大好きで(笑)、読んでましたけども、「ゴーマニズム宣言」あたりからは、あまり読んでませんけれども、?????あまり好きではないな、という印象を持ってるんですけども、ま、?????あまり興味はない。

だから、小林よしのりさんをオウムの人間が殺そうとしたとかいう裁判もあるみたいですけども、私には関係ないというか?????、いきなり電話で
「小林よしのり先生を殺すな」
と言われても困るんですけども(笑)。まあ、その方とはいろいろそこでお話をした訳ですけども、その話をすると長くなるので置いておいて、結論として、その人が言ってきた話としては、
「小林よしのり先生をもし殺そうとするんだったら、俺がお前を殺す」。
それでまあ、聞いたんです。
「私が例えば小林よしのりさんを殺すのはいけないけども、??????????は、いいんですか?」
と聞いたんです。
「それはいいんだ」
と言う。


「死」について

それに対しては当然、私の考えは、ここにいらっしゃる皆さんは、みんなそうだと思いますが、当然、さっき江川紹子さんも仰った通り、オウムにはもともと不殺生の、虫さえも殺すなという教えがありますから、当然、小林よしのりさんを殺しても悪だし、その敵(かたき)を討つのも悪いことだと思います。で、その人は、
「敵を討つのはいい」
と。ただ、そこで考えなきゃいけないと思うのは、私達はそういう教義に基づいて、どんな形であろうと殺生はいけないと考えている訳ですが、果たしてね、例えば彼の考えているような敵討ち、これが本当にいけないと言えるのかどうか。と言うのは、例えば日本に於いても敵討ちが容認されていたというか、素晴らしいこととされていた時代があった訳です。

あるいは例えば、人食い人種というのが本当にいるのかどうか分からないけども、いたとして、その世界の人間は、当然、?????人間を殺すというのは正しい、当たり前のことだ、と。つまり、これは方向的には仏教の問題に通じる訳ですが、この世にですね、絶対的な善悪というのはあるんだろうか。あるいは、絶対的に正しい、間違っていないということがあるんだろうか。こういう問題がある訳ですが、まあ、あの、これは死刑の問題とかを見てもそうですね。今、死刑反対論とかね、賛成論とかいろいろありますけれども。私自体は死刑については反対です。人間がね、どんな理由にせよ人間を裁いて死という裁定を与えるというのは、あってはならないことだと思います。しかし、例えば死刑賛成論者というのもいる訳で、賛成論者には賛成論者の論理的な、というか、いろんな言い分がある。

つまり、死というね、人間にとって最も重要な問題に対しても、人間はね、安易に納得できるような答えというものを持っていない。で、ここが、実は、おそらくオウムの信者の多くの人達が、まあ私自身については「そうだ」とはっきり言えますが、修行に入った動機です。


オウムは例外あつかい

私は子供の頃から、何が本当に正しいんだろうか、何が間違っているんだろうかということに、非常に疑問を持っていたんです。例えばテレビを見て、まあ私の世代だと、仮面ライダーとかゴレンジャーとか、パーッと出てきて悪者をやっつける。でも一方では?????。あるいは誰か、お父さん、お母さんにね、
「人の悪口を言っちゃいけませんよ」
と?????。でも例えば、夜にね、一杯飲んで、いろんな人の愚痴を言ったり、こういういろんな社会の矛盾、社会というよりも、この人間世界の矛盾を見て、本当に真実があるんだろうかと、ね。真実があるんだろうかというところが、少なくとも私の修行の動機です。

私、実は、中学生の頃から、本格的な、というか、ヨーガの修行を始めたんですが、当然その頃はオウムはありませんから、オウムに入ったのは、独自で修行をいろいろしてきて、その内オウムに巡り合ったという形なわけですが、?????仲間と話をしてみると、私の様なパターン、本当の真実とは何だろうか、という形で入った人というのは多いです。

ただ、ここでまた問題になってくるのは、当然そういった修行、これに疑問を持ってる人はいっぱいいると思うんですが、ここで、じゃあ修行をして疑問を解決しようと考える人は、当然少ないと思います。じゃあどうするか。そこで例えば、法律というのが出てくると思うんです。つまり、人間は個人個人、細かい部分では皆、考え方が違うんです。そこでその、それを統一させるためにと言ったら変ですけども、少なくともここは守ろう、ということで法律というのはあると思うんですけども、例えば今のオウムに対してね、誤解に関しては、この辺が完全に度外視されているように思います。法律ではそうなっているけれども、オウムは?????。

例えば、先程の千代丸先生が言ってらっしゃるんですけども、山本の問題にしても、公安警察が強引に足払いで倒して、それで公務執行妨害として。これ、ちょっと私もパソコン通信の方で一部流したんですが、するとそれに返ってきた答えが、「いや、それは公安の常套手段だからしょうがない、それはやられる方が悪い」と。じゃあ、しょうがないんだったら、そういう風に法律を変えてくれ、と。法律がもしそういう風になったるんだったら、法律に従うべきだと私は思う。勿論ね、法律といっても、完全にその、譲れない部分、信教的にね、例えば先程も言ったように、殺生をしてはいけない、と。これを例えば徴兵制というものが、もしあったとしたら、私は、もし法律でそれが定められようと、それには従いません。こういう風に、完全には譲れないものはありますが、基本的には法律には従うべきだと思います。しかし、そこでその、オウムに関しては、いいんだ、と。これは破防法の進め方についてもそうですけども、公安調査庁が出した資料というのは目茶苦茶で、私自身も、私の発言を採っていろいろ出されたんですが、まあ、ちょっと時間が無いので詳しくは言いませんけども、全然私が言っていないことが、資料としてなっている。あるいは例えば、大阪でも東京スポーツってあるんですか?ありますか。内容的に同じものなのかどうか分かりませんが、東京スポーツっていう、ほとんどギャグみたいな新聞があるんですが、これの記事が資料として使われている。全く目茶苦茶で(笑)。でも、まさにね、逆に言えばこういうものを資料にしなければいけなかったということは、本質的な資料が無いんだな、という印象を受けた訳ですけども、まあ、そういう風に、目茶苦茶なやり方で進められてしまった。しかもそれは、世論、オウムだからいいんだ、というような雰囲気を感じました。


子どものいじめと同じ構図

これはまさに、何というか、いじめの構図に近いものがあると私は思ってるんですが、私自身、実はですね、期間は短かったですが、子供の頃、いじめられたことがあります。中学生の時にね。この頃というのは、ものすごく辛かったけれども、なんというか、こう、つっぱり続けました、私自身は。?????。で、今、人生を振り返ってみまして、いじめられた頃というのは、一番ね、修行というか、その頃は修行はしてなけったけども、私の人生に於いて、言うならば心の修行が進んだ時期だと思います。

だから、いじめられると言うことは、別に社会にいじめられても、国家にいじめられても、それはいいんですが、破防法は、ちょっとまずいと感じています。実際の修行ができなくなる訳だし、まあ、出家というのは皆さんご存知のようにね、全てを捨てて、結婚もしない訳だし、お金も持たない訳だし、そういった現世的な?????全てを捨てている、で、全てを捨てているということは、逆に言えば、そういったもの全てよりも高い価値を、出家に於いて、あるいは修行に於いて見出しているから我々はそういうことをしている訳ですけども、それが全てひっぱがされるとしたら、こう、何というかな、ある意味では人生の生き甲斐というか、生き甲斐といっても軽いと思うんですけども、人生の全てを剥ぎ取られるということに等しいです。

ただこれは、今、例えば、いじめられているのはオウムに関係している人ですけれども、これは学校であってもそうだと思いますが、?????逆転というか、するわけです。私が学校にいた時もそうでしたが、ある時期に、いじめをしていた人がね、何かをきっかけにして、逆にいじめられるような場合、こういうことはよくあります。

今回の破防法についても同じことが言えると思うんですが、完全に傍観者として、あるいはいじめる側として見ている国民の皆さんが、いつ、例えば国家権力の暴走によって、やられる側に立つか分からない。

仏教の本質的な教えとして、条件によらないね、オウムの?????、これはどういうことかと言うと、普通の人が幸福というものを求める場合、必ず条件設定を考える。例えば、好きな女の子といれば幸福、いられないと不幸、だから、好きな女の子を求める。あるいは、おいしい物を食べれば幸福である。で、食えなければ不幸である。  

で、おいしい物を食えるような条件を整える。しかしそうじゃなくて、例えば修行というのは、言うなればね、女の子が側にいてもいなくても、おいしい物があってもなくても、どんな状態でも幸福である、と。これを求めるのが修行な訳ですが、これは例えば、今のいじめというかな、?????言えることであって、例えば、嫌な奴がいるから追出せ、潰せ。これを、もし続けていったら、いつまでもいつまでも繰り返しです。終わりません。


破防法問題はオウムだけの問題ではない

で、?????時には、麻原開祖が第一回の裁判で説かれた四無量心の?????に通じる訳ですが、まあ、今日も来ていらっしゃる中島眞一郎さんの人権尊重を求める市民の会が以前に出した、「みんなを好きでいたい」という本があるんですが、私はあの本の題名が非常に好きでした。「みんなを好きでいたい」この、みんなを好きでいたいというのは、オウムの、というか、仏教の修行の最も根本をなす?????。全ての人を愛する。全ての人の幸福を願う。魂の成長を願う。そこら辺が、オウムの最も根本的な?????。だから、そういう社会を作っていくべきだな、と。単純に、あいつ嫌いだ、潰せ。単純に、みんなが非難しているから非難する。これでは本質的に社会というか、皆さんの本質的な幸福というのは訪れない。そういう意味では、この破防法は、その道からどんどん外れていく最も大きなきっかけとなりそうな、というか、確実にそういうきっかけになってしまうと思いますので、絶対ね、それを阻止したい。

皆さんというか、先程、スーパー・グルの(笑)千代丸さんの方から、ここに来ている半分がオウムの信者だ、という話がありましたけど、私、顔を見ると、そうは思わないですね(会場爆笑)。
大体、オウムの人って、顔で分かるんでね。オウム顔というかね。だから一般の方が多いんじゃあ、少なくとも半分以上の方が一般の方かと思うんですが、オウムに対してだけじゃなくて、全体的な問題として、破防法阻止というものを考えていただきたいと思います。長くなって申し訳ありませんでした。





戻る